ゆめうつつ

刀剣乱舞・文豪とアルケミスト関連の二次小説。主にコメディ中心。

月は猫と遊びて

 注】いつもの本丸とは別設定の通称紅本丸の話です。

   初期刀は歌仙兼定で、三日月宗近が初期に顕現しています。 ※ちょっと修正しました。

 

 先ほどまで淡い色合いの雲の隙間からわずかな光をこぼれ落していた空も、今見上げればどんよりとした雲が垂れ込めて重く黒い色に変わっていた。
 突然正面より吹き抜けた風は、外気に晒した肌をひんやりとした冷たさで撫で上げた。出歩くのに暑くもなく寒くもない心地よい季節はどこへやら、今にも天候が崩れそうなのかしっとりと湿った空気が髪を頬にまとわりつかせる。
「これは降るなあ」
 手のひらを天に向けて差し出しながら、三日月宗近は困ったような、でもさしてそうでもなさそうなそぶりでつぶやいた。空に向けた手の動きにあわせて深みのある青い狩衣の袂が滑らかに動く。
 重くるしい風のあおりを受けた頭上の木々がさわさわと落ち着かない音を立て始める。
 暇を見つけては本丸の庭をそぞろ歩くのが三日月の日課であり、ささやかな趣味だ。
 今日はやっと昼前に数日におよぶ遠出から帰って来たところだった。主である審神者に付き従っての任務はこの本丸に帰ってくることで解放される。三日月は空を見上げながら長い睫に縁どられたまぶたをそっと伏せた。
(いつものように散歩に出たはいいがどうも胸が晴れぬ)
 陽の光が遮られたせいか辺りはどうも薄暗い。徐々に黒く染まってゆく天を仰ぎ、ただどうするでもなくその場に佇む。
 どれくらい見上げていたか、空から零れ落ちてきた冷たい滴が目元を濡らす。肌の上に落ちたそれを指先でそっと拭った。
 ぽつりぽつりと滴は落ちて地面にしみこんでゆく。
「ああ、やはり降ってきおったな」
 三日月は右手に持っている畳まれた傘に視線を落とした。朱色のつややかな表面が降り落ちた雨粒をはじく。
 当然、傘は三日月が自ら用意したものではない。
 帰って来てすぐに草履をはいて外へ出かけたとしたところを同じ三条派の今剣に見とがめられた。これから必ず雨が降るからと、押し付けられるように持たされたこの傘だったがたしかに今剣の言う通りだった。いつなりとも野を駆けるのを好む彼は昔からこういったことには勘が良い。
 だがまだこれくらいの雨足ならばしばらくは傘をささずともよさそうだ。雨に打たれるのもまた一興。
 三日月は少しずつ降り出した雨に包まれてゆく周囲を見渡した。
 右後方を振り向くと、木立の木々の向こうに影のごとく浮かび上がる建物の姿が見えた。雨に濡れてさらに黒くなっていく重厚な瓦を吹いた屋根が重なる枝の隙間からのぞく。あれは三日月たちが住まうために用意された本丸と呼ばれる建物だ。
 ここの本丸の館は幾つもに分かれており、中庭や敷地内を流れる小川がその建物の間をゆるりと流れている。そのせせらぎの上をいくつもの朱塗りの橋を渡した回廊でつながっていた。本丸の建物はいくつにも分かれ、三日月とてさていくつあったかよく覚えてはいない。
 土地を贅沢にゆったりと建てられた本丸とさらにその周りを取り囲む広大な庭を含めれば、この本丸はかなり広い。ここに顕現している刀の中でも特に古株である三日月でもあてどなく彷徨っていれば、すぐに知らぬ場所に迷い込むことはいつものことであった。
 今日も気の向くまま歩いていたらまた覚えのない場所へと出ていた。だがあわてることはない。歩いていればそのうちどこか知っている所か、本丸の中を案内してくれる誰かの元へにたどり着けるだろう。
 こちらは気の向くまま歩いていてもよい。夕暮れ時になれば必ず短刀の子らが自分を探し見つけてくれる。隠れ鬼をしている気分になって楽しいものだ。だがその後はいつも大きな刀たちに迷子になるなと怒られるが。
 迷子とはどういうことだ。俺は迷っているつもりなどないのに。
 拗ねたように物申してもなぜか誰も本気にしてくれないのはなぜかわからぬ。一向にその気のない三日月は今日もまたあてどもない散歩を続ける。
 帰り道のことなど一切気にすることなく、ゆったりとした歩調で足を進めた。
 道なき道を草を踏み分けつつ進んでゆく。長い袂と袴が重なり合い衣擦れの音が小気味よく耳に響いた。
 本日は主から与えられた任務は何もない。のんびり散歩して夕餉までに戻ればよい。先ほどおやつを終えたところだからまだ暗くなるまでには時間があるだろう。
 濃い蒼の上質の布であつらえた綺麗な衣が汚れるのも気にせずに、葉の生い茂る庭木の間をすり抜けてゆく。緑が萌えたちてむせるような草いきれが衣と擦れるたびに匂い立つ。
 道がないところを歩く方が探検の真似事をしているようで面白い。ただ整えられていない茂みの中は何があるかわからないから衣服がすぐ汚れてしまう。他の者はせっかくの綺麗な衣がと怒るが、まあ好きなものは仕方がなかろう。
 ぽつりぽつりと大地に降り注いでゆく雨粒の数が次第に増してゆく。足元はむき出しの土のところがだいぶぬかるんできた。この雨の強さではもう濡れるがままでいるには難儀なようだ。
「どうやら本格的に降ってきてしまったようだな。やっとこれの出番になるということか。ありがたく使わせてもらうぞ、今剣」
 細くした竹の骨組みに朱色の絹布を張った和傘は開くと華やかな花を宙に咲かせた。三日月は傘を肩に軽く乗せると、くるりと柄を軸に一回りさせる。
 乾いた地面に雨粒が一粒また一粒と零れ落ちて、徐々にその染みが大きくなりやがて地面に染み渡ってゆく。庭は次第に強くなる雨にけぶられて雨霧に包まれ、だんだんと遠くまで見通せなくなっていった。
 傘を叩く雨の音が楽の調子を取るようで三日月は心なしか愉快な気分になった。
 わざと音を外した言葉のない歌を口ずさみながら、さらに暗がりの茂みへと足を踏み入れる。天を覆うように幾重にも枝を広げた木々は周囲から生きている者の気配を消してしまい、空からの光が差し込まぬのもあってまわりの林をどこか陰鬱な雰囲気にしていた。
 どれくらい奥へ入り込んだのだろう。
 本丸のにぎやかさから切り離された静かで誰も立ち入らないその場所。そこで林の中にあるにはそぐわぬものが目に飛び込んだ。
 樹齢を重ねた大樹の傍に包まるように丸まった見慣れぬもの。
 どう見ても白く丸みを帯びた大きな塊だった。だが何なのかは遠目ではよくはわからない。果たしてこれは何か。。
 離れたところからじっと見ていた三日月は遠くからではらちが明かぬと一歩足を踏み出した。少しずつ音を立てないように近づいて、その白いものを凝視する。警戒を持たせないぎりぎりで観察するとどうやらかぶっているのはただ布らしい。元は白い布のはずだろうに、裾はところどころ破れたりほつれやつれたりしていた。よく見れば地面に近いところはほこりか泥か汚れがしみついてしまっている。
 太い樹の幹に寄り掛かるように縮こまって丸まったそれは一向に微動だにしない。
(まんじゅう・・・にしては大きすぎるか。なんであろうなあ、あれは)
 ほんの少し首を傾げながら三日月は恐れもせずにさらに手を伸ばせば触れられるほどに近づいた。いつもは細いその目をわずかに見開きながら、何なのだろうと好奇心を抑えきれぬ様子で顔を寄せてゆく。
 正面に立ったところで布の裾からわずかに人らしき手がのぞいていているのに気が付いた。白磁のような肌をしたその手は外界から身を守るように布をきつく握りしめている。指先は細いながらも力強さを感じさせた。
 もっと見えぬものかと三日月は傘を持ちながらその白饅頭の傍にかがみこんだ。顔を傾いだそのしぐさに、目元にかかる黒髪がさらりとこぼれる。
 姿勢を低くしたことでほんの少しだけその布の中がのぞき見えた。
 まず口元が見えた。色素の薄い唇がきつく閉ざされている。その上には整った鼻筋。なかなかよい形だ。細い顔を縁どる肉付きの少ない輪郭。だが見えるのはそこまでだ。
 相手の心が最も映し出される場所。そこが見えぬ。
 三日月が目の前にかがみこんでいるのに気が付かない訳でもないのに、顔を上げようとはしない。かすかに布が上下しているようなので生きてはいる。それに眠っているわけではなさそうだ。布の下からにじむ張りつめた気がこちらの動向に集中していたからだ。
(警戒されてはいるようだが・・・)
 しばらく首の角度を変えながら覗き込んでいたが、どうやっても布が邪魔をして見えない。ふむ、と一息ついた三日月は長身をかがみこむと、その者の顔がありそうなあたりをまっすぐ見据えながら名乗りを上げた。
「俺の名は三日月宗近だ。縁あってこの本丸に顕現した。お主にもここで存在するというならば名というものがあろう、なんと言う?」
 その名を聞いた瞬間小さく丸まっていた身体がかすかに跳ね上がった気がした。だがそれも目の錯覚だったのか。顔を上げるどころか、息を漏らす音すら聞こえてこなかった。
 傘に当たる雨音が激しくなってきた。この強さでは目の前の者もその薄い布ではこの雨は防げないのだろう。周囲に生える木々は白くけぶる雨の向こうに黒い影となって少しずつその姿を淡いにしてゆく。
 いくら待とうが雨はやみそうもない。被った布が雨に濡れてしっとりと湿り気を帯び始めている。
 一向に返事もなくどうしたものかと少し困った顔をして三日月は再度問いかけてみた。
「どうやら雨が強くなってきたな。このままでは濡れて風邪とやらを引いてしまうぞ。傘はこの一つしかないが、俺と共にならば入れる。ひどくなる前に雨宿りのできる場所へ行かぬか?」
 しかしどれだけ優しく尋ねても返ってくるのは沈黙だけだ。相変わらず相手は動こうとするそぶりすら見せなかった。
 そうこうしているうちに雨は細やかな小雨から徐々に雨粒が大きくなってゆく。頭上の樹の枝の隙間から見える雲もどんよりと不気味な黒色となって厚くのしかかる。本降りになるのも時間の問題だろう。
 この者自身に動く意思がなければどうしようもない。かといって力づくで腕を引っ張って連れて行こうにも抵抗されては三日月一人では難しい。
 自身の唇に軽く指先を触れて思案する。じっと動かぬ布饅頭を見つめていたが、何を思いついたのかふっと口元をゆるませた。
 三日月は己のさしている傘を彼の頭上に差し出した。急に身体に雨が当たらなくなったことに気付いたのか、布をかぶったままその顔をわずかに見上げる。細く白い首筋が俯いて隠れていた喉元から覗く。
 その隙を三日月は見逃さなかった。
「人が話している時は相手の目を見て聞くものだ」
 そう言うやいなや素早く片手を伸ばすと被っていたその布を躊躇なく後ろへ下ろして外してしまった。慌てて手で押さえようとしたようだが遅い。はらりと布が落ちて隠れていた相手の素顔が露わになる。
 布の下から零れ落ちたのは陽光を閉じ込めた金色の髪。目元を隠すほど伸びた前髪の隙間から覗くその瞳を見た瞬間、三日月もまた動きを止めた。突然の出来事に驚いたのか見開かれたその双眸にただ囚われる。
 緑を映した水面に蒼を溶かしたかのような色合いの瞳。柔らかな翡翠を思わせる複雑な色味を帯びたその眼に三日月は訳もなく惹きつけられた。
(これは、まるで宝玉のような)
 見た目には自分と変わらぬ年若い男の姿をしていた。虚を突かれた顔で見上げられるとなぜか幼く感じられる。だがその身に秘められた本性は紛れもなく自分と同じと見抜いた。
 審神者である主によって刀の付喪神としてこの本丸に顕現させられ、時間遡行軍と戦うために呼ばれた自分と。
 相手の方も突然開かれた視界に驚いたのか、こちらを凝視して固まっている。三日月は怯えさせぬよう穏やかな口調を心掛けながら声をかけた。
「お主も俺と同じか。主に顕現させられた刀剣男士というものだな。まあ、ここには人である主以外は我らと同類しかおらぬゆえ、当たり前かもしれぬが。だがいつ顕現したのだ? あの本丸ではまだお主の姿を見たことがないような気がするが」
 長い前髪が目に入りそうだったので、除いてやろうとなにげなく指先を伸ばす。
 突然、目の前の彼の眼に光が宿った。その動きは素早かった。急に頭を後ろに下げて三日月の指が髪に触れるのを避ける。
 あまりの素早さに三日月が止める間もなかった。伸ばそうとした手がむなしく宙で止まる。
 たった一瞬だけ意志を持って交わった視線。睨みつけられたその瞳に映ったのは紛れもなく拒絶の色。だがやっと見ることのできた強い感情もまたすぐに色を失い無表情の中に沈んでゆく。
 素早く布を頭にかぶり直して顔を隠すと、三日月をあからさまに避けているのか、後ろへにじりながら下がる。そしてまた顔を膝にうずめてまた丸くなってしまった。
 彼は布をさらに深くかぶり、そのまま背を向けてしまう。
 三日月はしゃがみこんだままいそいそと近づく。だが向こうもこちらの接近の気配を感じ取っているのか、ある一定の距離まで近づくとまた遠い樹の陰へと離れてしまった。
 それを幾度繰り返しただろう。待てと言いながら掴もうと伸ばした手が再度宙を切ったところで、三日月は小さくため息をついた。
「それほどまでにお主が近寄ってほしくないというのであればもう近づかぬよ」
 その言葉に手が握っているあたりの布がかすかに揺れた。そしてほんのわずかだが気を緩ませた気配を感じ取る。そうだとしても木の根元で丸くなった彼は布を握りしめてこちらを見ようともしない。
 雨は二人が追いかけあっている間に本降りになっていた。濡れて重くなった白い布はもうこちらを見てはくれない。三日月は愁いを帯びたまなざしで彼を見つめる。
 膝かがみになったその場所から約束通りまったく動かずに首をやや傾けながら語りかけた。
「だが最後に一つだけ俺の言うことを聞いてくれ。今は雨が降っておる。その布をかぶっておってもこの雨はしのげぬだろう。だからこれを使うといい」
 ぽんと手にした傘を彼に向かって放り投げた。宙に投げられた傘はふわりと浮きあがった。薄暗い空間にぱっと艶やかな花が開く。鮮やかな紅い色彩の傘がくるくる回りながら彼の元へ飛び込んだ。
 三日月の言葉に驚いて顔を上げた彼は手元に傘を投げ入れられて反射的にそれを掴んでしまった。
 突然手の中へ飛び込んできた傘をどうしたらいいのか分からないのか、戸惑った表情で彼はこちらを見上げる。
 布の下に隠れていた顔をやっと見ることができた。表情はぼんやりと薄いのにただその瞳だけがかすかに揺れ動いている。手元の傘と三日月とを見比べながら何を言うべきか言わぬべきか迷っているのだろう。
 彼を見据えながら三日月はすっと立ち上がった。木々の間からこぼれた落ちる雫が身体を濡らす。
「傘はあとで返してくれればよいぞ。またな」
 たったそれだけ言い残すと、三日月は身をひるがえして雨に打たれながらその場を立ち去った。
 言葉は返ってこなかった。だが後ろから自分をじっと見つめる視線だけは最後まで感じられた。
 歩きながら頭をわずかに上に傾けて降りしきる雨をその身に受ける。冷たい雨を浴びるその顔はなぜか穏やかな気持ちで満たされていた。

 

「なんなんですか、みかづき! どうしてそんなにぬれているんですか。ぼくがちゃんとかさをわたしましたよね、そのかさはどこいったんですか!」
 本丸に帰り着くなり入口で待ち構えていた今剣にさっそくきつい説教を受けた。
 帰りはずっと雨に打たれていたゆえ、衣はずっしりと体に重く張り付いている。頭からぽたぽたと滴をしたたらせて三日月はすっかり濡れてしまった自分自身を眺め渡した。
「すまぬなあ、傘は俺より濡れそうな者がいたのでな。そちらに与えてしまった」
「それでじぶんはぬれてかえってきたのですか? どこまでぼんやりなんですか。いっしょにかえってくればいいことでしょう」
 腰に両手をつけて上半身を前につきだし頬を膨らませる今剣に、三日月はどう言ったものかと困ったように笑んだ。
 ほたりほたりと垂れ下がった袂から滴がしたたり落ちて床を濡らす。三日月はふと視線を雨にけぶる玄関の外へと投げた。
「一緒に帰れるものならばな。それにあやつはあそこから動きたくなさそうでなあ」
「おや、何をにぎやかな。・・・三日月、なんじゃその姿は。まるでぬれねずみではないか」
 にぎやかな玄関に気付いた小狐丸がやってきて、頭からしっとりと水をしたたらせた三日月に目を丸くする。
「はっはっは。急な雨に降られてしまってなあ。だが雨に濡れるのも存外気持ち良かったぞ」
 ぐっしょりと濡れて重く垂れさがった袂を見つけるように掲げて、どこまでも愉快に笑う。ずぶぬれでもおどける三日月に今剣は呆れてそれ以上叱る気が失せたようだ。
「とにかくそのままではかぜをひきます。ぬれたふくはきがえて、おふろにいってあったまってください。わかりましたね。まったくはかまもどろだらけじゃないですか。かせんにまたおこられますよ」
 ただぼんやり立っているだけの三日月から一番濡れている濃青の狩衣をはぎ取るために、今剣は小さな手で手早く腰のひもを外してゆく。いつも着替えを手伝っているから慣れたものだ。
 されるがままになりながらふんわりと感謝の笑みを浮かべた。
「世話をかけるなあ」
「そうおもうならもうすこしじぶんできをつけてください!」
 はぎ取った着物を手で乱暴に丸めて、今剣は代わりの着物を探すために駆け去ってしまった。玄関の傍で残された三日月は袴と単の姿になってしまったので濡れているせいもあり少々肌寒い。まだこの季節の雨にあたるのは身体が冷えるようだ。
 部屋に入っては濡らしてしまうため、三日月はぼんやりとそこで今剣が帰ってくるのを待つことにした。
 戸口の向こうでは地面を打つ雨音がここにいてもよく聞こえる。屋根に叩きつける雨音は先ほどよりも激しくなっているようだ。
(あの傘を使ってくれるといいが)
 残してきたあの者にしばし思いを馳せる。
 今剣が身体を拭くための布を持ってきた。かがむようにと言われておとなしく膝をついてその場にしゃがむと、柔らかな布を頭からかけられ乱暴にかき回されて濡れた髪を拭われる。
「ひどいなりだというのに存外楽しそうですね。なにか外で面白いでもみつけましたか」
 どうやらずっと笑みを浮かべていたらしい。不思議そうに小狐丸に問われて、ふむと三日月は考えた。
「そうさな、猫を見つけた」
 とっさにその言葉が出た。自分で言っておいてから納得する。
 そう、あれは野に生きる猫に似ていた。誰からの助けも拒んで生きようとしながらも、どこか後姿のさびしげな。
「猫?」
 今剣も手を止めて三日月を見返した。小狐丸は目を細めていぶかしげに問いかけてきた。
「猫など珍しくもないでしょう。この本丸でもその辺を何匹もうろついているではありませぬか」
 小狐丸の言う通り、この本丸の広い敷地の中には幾匹もの猫が我が物顔で歩き回っている。今更猫がどうのといっても珍しくはないのだろう。
 だが三日月はそれらとは違うと言った。
「いやいや、なかなか見かけぬ毛並みの見事な猫だぞ。そう簡単に懐きはせぬだろうが、見ていて飽きぬ」
「猫ですか。私は興味はありませんな」
「狐めはぶれぬなあ。だが俺にはそれはそれはいと愛いものと映ったぞ」
 あの宝玉のように輝く翠がかった青い瞳を思いだす。
 名乗りすらあげぬ。頑なに顔を隠し、視線から逃れようとする。あの誰もいない薄暗い林の奥で独り理由も語らずに黙って膝を抱えてうずくまっていた。
 寂しさをにじませたその背に触れてみたいが、おそらく今は許してはもらえまい。
 あれはこちらを完全に拒んでいる。近寄ることすら望んではいないのだろう。
 だが一度でもあの瞳を見たら忘れるなど難しい。今一度その顔を見れぬものか。
 何を話せば笑ってくれるのか。どう話しかければ応えてくれるのか。
(次は一声なりとも言葉を聞かせてもらえればよいな)
 三日月はかすかに俯いてそっと口元を微笑ませた。

 

 菓子楊枝の先が菓子の上でためらうように止まる。口に入れるために切り分けようと動かすが、切っ先が柔らかな菓子に触れる直前でまた止まってしまう。幾度かそれを繰り返して三日月は菓子楊枝を手にしていた皿の上に置き直した。
 手元の薄紫色の菓子はなぜ食べぬのかと問いかけてくる。
 透明な寒天を水滴に見立てて上に散らした紫陽花を模した菓子はたいへん見目麗しいが、今日はどのように美しい菓子であっても胸が重く感じられどうしても食べる気にはなれない。
 いつもならどんな菓子でも見ればたちどころに腹がすくのにこれはどうしたことか。
 畳の上に行儀よく正座をしながら三時のおやつをいただこうとしていた三日月だが、どうも食が進まない。
「食べないのかい。本丸にいるときは何があろうとおやつだけは必ず食べる君が。今日は万屋で人気の月替わりの菓子だよ。水無月にだけ売り出す限定品だ。あんこものは君の好物だったはずだが。具合でも悪いのかい」
 壁際に置かれた文机の前に座わって仕事をしていたはずの歌仙が心配そうな目でこちらを窺っている。三日月が菓子に手を付けないのをそれとなく気にしていたらしい。
 書き物をしていた歌仙は筆をおいて身体の向きを変えると、正面から三日月を見据えた。
「そのようなわけではないだろうが」
「主から命じられた仕事や内番の当番を忘れることがあっても、おやつを食べることだけは絶対に憶えている君が一体どうしたんだい」
 言葉づかいは極めて丁寧だが、三日月はこうだろうと決めつける歌仙の言葉には少々不服だった。
「なんだ。まるで俺がおやつを楽しみにするだけの子供のような扱いではないか」
 頬を膨らませて反論するが、歌仙は取り合おうとはしない。さらに神妙な顔つきでとうとうと自説を述べ始める。
「僕は同じだと思っているけどね。人は老体になると幼児返りするともいうが、人の身体を得た僕らも同じことがあり得るかもしれない。特に刀としての存在が千年の時を超え、なおかつ日々自分からじじいだと言っている君ならばそうなってもおかしくはないだろう」
「むう、歌仙は機嫌が悪いのか。言うことにいちいち棘があるぞ」
 軽く頬を膨らませて三日月は反論する。だが歌仙はその言葉にかちんと来たのか上に頬が引きつった。
「それを君が僕に言わせるのかい。近侍の仕事で忙しいと言うのに毎日毎日目の前にわざわざ自分のおやつを持ってきて、大量の書き物をする僕の前で見せつけるようにのんびり食べるようなまねをするからだよ。書類仕事の手伝いもろくにできないくせになぜいつ僕のところへ来るんだい!?」
「おやつは独りで食べてもうまくはないからに決まっておるだろう」
 さも当然のように言うと、歌仙の眉間にはくっきりと青筋が浮かび、端正に整えられた眉が跳ね上がった。
「だからといってなんで僕のところなんだ。同じ刀派の三条の部屋にでも行けばいいじゃないか!」
 歌仙が苛立ち交じりにてのひらで思いっきり強く机をたたいて大きな音が鳴り響いた。彼の頭の上で前髪が邪魔にならないように桃色の細布で結わえていた髪がぴょこんと跳ねる。
 この本丸の初期刀としてここに集う刀が増えて責務が重くなってからというもの、歌仙は冷静沈着をよそおうとはしているが、少し苛立てば沸点が急に低くなるのは相変わらずだ。
 怒ってこちらを睨みつけている歌仙は放っておいて、三日月はぼんやりと目の前の菓子を落す。そっと片手を胸元に当てる。まだここが落ち着かない。
 自身の胸を眺めやっていると開いた戸口から人当たりの良い柔らかな声が降ってきた。
「あれ、三日月さんまだ食べていないんだ。珍しいね。はい、歌仙君もお茶を持ってきたからちゃんと休憩しなよ」
 歌仙の仕事部屋に湯呑と急須を盆にのせて持ってきた燭台切が顔を出した。淡い紫色の専用の湯呑を受け取った歌仙は胡乱な眼で目の前の三日月をまだ睨んでいる。
「珍しいことにどうもおやつを食べられないみたいでね」
「え、三日月さん具合でも悪いの? 何かにあたった? それとも拾い食いしたとか・・・」
 おやつを食べられないと聞いて、すぐさま自分の悪食を疑う燭台切にさすがに温厚な三日月の機嫌も悪くなる。
「燭台切よ、いくら俺でも拾ってまで食うほど食い意地は張っておらぬぞ」
 こやつらは自分のことをどう思っているのだろう。一度はっきり聞いてみるべきか。だが三日月は黙って手渡された湯呑を受け取っただけだった。
 湯気の立つ湯呑に優雅な仕草で手を添えながら、歌仙は静かに茶を喫してちらりとこちらを見る。
「燭台切、彼は今朝の朝食だったらしっかり食べていたよ」
「それならその後でかな? 三日月さん、部屋とかで戸棚の奥に食べ物隠しちゃだめだよ。この季節は雨が多いから食べ物はすぐ傷むからね」
「だから違うと言っておろうが。・・・そうだ、俺には悩み事があるのだ」
 このままだと誤解されたままになる。そう考えて三日月は気鬱になっている原因を白状した。三条の者たちに説明したように肝心の部分は隠してだが。
「実はな、猫が懐かぬのだ」
「猫かい?」
 明らかに予想していなかった答えだったようで、歌仙の顔が引きつったように歪む。
「猫ってこの本丸でも何匹かいるよね。どの子?」
 顔を険しくして言葉をとぎらせた歌仙に代わり、燭台切が場をとりなすようにわざと明るく問いかけた。どうやら本当に猫のことだと思ってくれたようだ。
 樹の下でうずくまる彼の姿を思い浮かべながらその様子を言葉にする。
「真っ白い猫だ。誰もいない隅の方で丸くなっていてな、こちらが近づくと警戒するし、どんなにあやしても声すら聞かせてくれぬ」
 初めて会ったあの日から、決まった時間にあの場所へ出向いて会いにいった。ただ何を言っても言葉は返ってこないし、触れようと手を伸ばすと逃げてしまう。
 貸した傘は次の日に返してもらったが、その時もこちらの胸元へ傘を無理やり押し付けると目も合わせないまま何も言わず逃げるように去って行ってしまった。
 あの時はもうここには来ないだろうと、本気で気を落しかけたほどだ。それでも一縷の望みをかけて明くる日にそこを訪れると、あの者は昨日と同じ場所で変わらぬ姿のままうずくまっていた。
 以来、主に命じられた任務や仕事がなければそこに行くことにしている。
 時間だけはいつも同じ。おやつ時から夕餉までの間。ただし互いに次の約束などしない。
 それでも自分が出向けばだいたい彼はそこにいる。同じ樹の下で背中をつけて身体を丸めながら。それが今日でもう七日は過ぎた。
「真っ白い毛並みの猫? そんな子ここにいたかなあ」
 顎に手を当てて燭台切が本丸にいる猫を一匹一匹思いだしているようだ。伊達の刀たちはよく本丸の館までやってくる猫に名をつけているくらい猫好きらしく、この本丸をうろつく猫についてはよく知っている。その彼も白い猫となると覚えがないようだ。
 それはそうだろう。あれは誰からも見つからぬようにひっそりと隠れているからおいそれとは見つからない。
「見つけてから足しげく通っているが一向に慣れてくれぬ。無理に声をかけたりすると逃げるのでな。どうしたら仲良くなれるか分からなくてなあ」
「君が猫に夢中になるなんて意外なんだが、本当にどうしたんだい」
 話を黙って聞いていた歌仙が戸惑いを隠せずに問いかけてきた。燭台切は珍しい三日月の行為に興味がそそられたのか、猫と仲良くなれる持論を披露した。
「そうだねえ。猫は警戒心が強いからね。時間をかけてこちらが危険じゃないのを伝えていくしかないんだけど、まずは少しずつ餌をあげてみるとかどうかな?」
「餌付けとな?」
「そうそう、野生の猫ならなかなか満足に食べ物を食べられないからね。最初は食べないかもしれないけど、毎日ちょっとずつあげていくと警戒しなくなって仲良くなれるんじゃないかな」
 なるほどそれはよい手かもしれない。膝に置かれた手をつけていない菓子に眼を落しながら三日月は目を細めた。
 猫と聞いて調子よく話し出した燭台切を冷ややかな声で歌仙がけん制する。
「待て、燭台切。これ以上本丸で世話をしている猫を増やす気なのかい。すでに伊達で世話しているのが一匹いるだろう。あの時は痩せ衰えていてどうしようもなくなっていたから仕方なく主に頼んで許可してもらったんだ。噂に聞くところ、その猫とは別にあと何匹か餌をやっているそうじゃないか」
 初期刀の歌仙に厳しく問われて、燭台切の笑顔が引きつった。
「あ、あの子は最初に拾った加羅ちゃんがちゃんと世話をしているし、主さんがいろいろ手を尽くしてくれたからね。餌をあげるのも無節操にはしてないよ。おやつだけだよ。今はあげる猫をそんなに増やさないように言ってあるし。だから三日月さんの猫も仲良くなるくらいにおやつをあげては駄目かな」
「だとしても僕らの食べるものを与えるのはよくないだろう。猫には味が濃すぎる」
 しかしそれを聞いて途端に燭台切の顔に輝きが戻った。聞いてくれとばかりに頼みもしないのに自信満々に独自の工夫を重ねたねこごはんの講釈が始まる。
「大丈夫だよ。僕たちが他の猫たちにあげている専用のがあるからね。それで三日月さん、何がいいかな。野生にいる子だとキャットフードは食べ慣れていないだろうから、自然素材なものがいいよね。ささみとか鰹節とか言ってくれれば用意するよ。何なら猫たちに好評のレシピも用意しようか。あ、でも煮干しはあげちゃダメだよ。猫の身体にはあまりよくないからね」
 嬉々として猫の好きな食べ物を延々と話し出した燭台切の熱意に押され気味になる。
 胸のあたりで手のひらを彼に向けて降参の仕草を取る。猫というのは例えだ。まさかあやつに鰹節の塊などそのまま与えるわけにはいかぬだろうが。
「猫にも好みというものあるだろうからな。まあ、お主のあどばいすとやらは参考としてありがたく受け取っておくぞ」 

 

 今日もまた曇りだ。ここ数日天気が良くないのか高くまで澄みきって晴れた空を見ることはない。
 雲の色は薄い灰色だ。ただ見上げても雨が降る時のように頭上にのしかかるほど垂れ込めていないからすぐに雨になることはないだろう。
 今日は傘の代わりに手には小さな包みを抱えている。三日月はその包みに視線を落とすとふっと表情を緩めた。
 通い慣れた林の中を三日月はもう迷うことなく歩いていく。あの日から毎日通る道筋ゆえ、次第に足跡に沿って草が踏まれた道ができようとしている。
 どこまでもか細く、ここを通う足が絶えればいともたやすく消えてしまうであろう儚い道。
 己が通うことでつくりあげたその道を三日月はただ黙すように口を閉ざして歩く。
 見慣れた大樹が林にほんのわずかに開けた場所に枝を広げているのが見えた。その根元にはいつものごとくうずくまる白い影。
 ああ、今日はいるなとほっと胸をなでおろす。
 手を伸ばしても届かない距離で三日月は立ち止まった。
 今日こそはと声が返ってくることを期待して、それでも返ってこないことを心のどこかであきらめながらも優しく言葉をかけた。
「お主がいてくれてうれしいぞ。昨日はここでは会えなんだからな」
 声は届いているはずなのに身じろぎすらしない。せめて顔だけでもこちらに向けてくれればいいものを、うつむくばかりで果たして聞いているのか。
 だがそれもいつもの事だ。返事が返ってこないまま、三日月は話し続けた。
「雨はまだ降りそうもないな。ちょうど良い。今日はな、よいものを持ってきたぞ。お主にあげようと思うてな」
 藍で淡い色合いに染められた縮緬の袱紗を開く。滑らかな布が零れ落ちて、中に入っていたものが露わになる。真白く掌に乗るくらいの大きさの饅頭だった。その丸い頭頂には小さな赤い花びらの印が押されている。
 袱紗にのせられた饅頭を手の上に置いて、三日月は膝を曲げて相手の目線に目を合わせた。
「先ほど行った万屋で売っていたのでな。まだ夕餉には遠いこの刻限では小腹もすくだろう。これはうまい饅頭だぞ。どうだ、食べぬか?」
 饅頭という言葉に目の前の彼の肩が揺れた。おそるおそるといった感じで下を向いていた顔がゆっくりとこちらに向けられる。
 布の下から三日月の手に乗せられた饅頭が気になるのか熱い視線でじっと見つめているようだ。
 興味があるらしいと気付いた三日月は彼の目元のすぐ近くまでその饅頭を近づけた。
「ほら、遠慮はいらぬぞ」
 彼の眼が饅頭と三日月の顔を行き来する。取るか、と思ったところでなぜか突然勢いよく横を向いて目を逸らした。目深に布を引き下げて表情を覆い隠す。わずかに見えていた口元が開く。
「いらない。それはあんたのだ。あんたが食べればいいだろ」
 想像していたよりも低く冷たい声音が耳朶に届く。初めて聞くその声に目を丸くする三日月だったが、相手はうつむいたままこちらを見ようとはせず、それ以上の言葉は発しなかった。
 余りに黙りつづけていたゆえ、ちゃんと人の言葉を話せるのかと驚いたのも事実。
 ただ最初の一声はきっぱりとこちらを拒絶する言葉だった。言いたいことは言ったと固く口を閉ざしてしまっている。
 いつもと違うこちらの行動が彼を動揺させて逆に心を頑なにしてしまったか。だが彼の気持ちが放った言葉通りとは限るまい。
 青みがかった三日月の髪がさらりと揺れる。相手の気分を落ち着かせようと努めて優しい笑みを浮かべた。
「これはお主のだ。それに俺はもう自分の分は食べたのでな。だからそら、これはうまいと言っただろう?」
 三日月の言葉を聞くなり、彼の口元が苛立ったのかきつく噛みしめられた。そのまま勢いよく顔を上げて険しい目でこちらを睨みつけてくる。
「俺はいらないと言っている」
 猛々しい眼だ。顔に出す感情は乏しくてもその瞳だけは切実にその心の内を映しているのかもしれない。
 不思議な奴よと思いながらも、三日月は睨みつけられようと変わらぬ微笑で手にしたものを差し出し続けた。
「いや、これはお主のために持ってきたものだ」
 どんなにきつい目をしても三日月には効果がないと理解したのか、先ほどよりもさらに怒りを含んだ声がその薄い色素の唇から洩れた。
「だから、俺は・・・」
 突然大きな腹の音が鳴った。至近距離だったため三日月は思わず自分の腹を見たが違う。この音の主は自分ではない。
 顔を上げると先ほどとは明らかに様相を異にした相手の表情が目に入った。
 彼は口元に手を当てて顔を赤くしている。自分の前で腹を鳴らしてしまった恥ずかしさのためなのか、動揺して完全に固まってしまっていた。
「今のはお主か?」
 小さく三日月が問うとさらに耳まで赤くさせて布を限界まで引き下げて顔を隠してしまう。
 顔は言葉よりも雄弁に物事を語るともいうが、先ほどまで反応の乏しかった彼がここまでいろいろな感情をあらわにするとは驚きだった。
 もしや顕現したばかりでそれほど人の身に慣れてはいないのか。だから感情を示すことも話すことも苦手だったのか。
 だが無理にこれ以上追い詰めるとまた逃げてしまいそうだったので、三日月はなるべく平静を装って慰めた。
「人の身を得た我らゆえ、腹がすけば腹が鳴るのは当たり前だ。恥ずかしくもあるまい。俺とて同じよ。腹がなる時くらいはある」
 肩がピクリと動いて、うつむいていた顔が布の下から覗く。
「・・・あんたも腹がなったりするのか。天下五剣なのに」
「人の身を与えられた今はどの刀とて変わらぬ」
 警戒させぬよう少しずつ彼に近づき、三日月は下ろした彼のその手に向けて饅頭をそっと差し出した。首をやや傾け誘うように囁きかける。
「人の子は腹が減っては戦はできぬと言っておるが、刀の付喪神から実体を得て人の姿となった我らとて同じよ。腹を空かせたままではいざという時、己の刀すら振るう力すらなくなるぞ。それでもいいのか、お主は」
「それは、嫌だ」
 あきらめたような声が彼の口から洩れた。垂らしていた手がゆっくりと上がってゆき、三日月が差し出した饅頭をそっとつかんだ。
 手にしたそれを彼はしばらくじっと見つめていたが、大きな口を開け勢いよくかぶりついた。先ほどの人を避ける態度とは違って食べるときは妙に豪快で威勢がいい。
 口の中で咀嚼して飲みこんだ。細い喉が上から下へと動く。
「うまい・・・」
 ぽつりとつぶやかれたその言葉に、三日月の顔がぱっと晴れやかになった。
「そうだろう。これは出来たその日に食べなくてはうまくなくてな。あんこの甘さが程よくて、皮ももっちりとしておる。俺が美味いと思ったものを、お主もうまいと言ってくれてうれしいぞ」
 反応を引き出せたことが嬉しくてつい勢いよく饅頭について語ってしまった。好きな物に好意的な言葉を得られると、つい饒舌になってしまう。
 彼はちらっとこちらに一瞥を投げかけたが、目が合いそうになるとすぐ手元の饅頭に視線を落としてしまう。
 わりと大ぶりな饅頭だったが、彼はほんの数口でぺろりと胃の中に収めてしまった。
「よい食べっぷりだな。饅頭をあげた身としてもそれだけ見事に食べてくれると気持ちが良い」
 本気で感心する三日月に、指先についた饅頭のかすを舐めていた彼はいぶかしげに見上げてきた。呆れた声が彼の口からこぼれる。
「饅頭ひとつでそんなに感激できるあんたの方がおかしいんじゃないのか」
 だが、と言って彼は急に下を向いて押し黙る。唇が動いた。聞き取れるかわからぬほど小さな声が耳に届く。
「俺はここに顕現してまだ間もなくて人の身の勝手もよくわからない。誰かと話すことは一番苦手だ。今だってあんたに言いたいことが伝わっているか正直自信はない」
 下を向いている彼の顔がどんな表情をしているのか三日月のところからはうかがい知ることはできない。ただぼそぼそと下を向いてつぶやく言葉はどうも聞こえにくい。
「だけど兄弟からこれだけはしなくては駄目だと言われている。誰かに何かをしてもらったらちゃんと礼を言えと」
 言っているうちにどんどん声が小さくなる。彼の声が聞き取りづらくなって自然と近くまで顔を寄せていた。
 近寄れば近寄るほど彼の顔は強張り視線は足元をさまよう。口元は確かに動いてるがその声は聞き取れない。
「お主、もう少し大きく話さぬとよく聞こえぬが・・・」
 吐息がかかりそうなくらい顔を近づけた時だった。
 優しさを包み隠した初々しい声音が不意打ちとなって耳朶に届く。
「・・・その、三日月宗近。俺なんかのためにありがとう」
 恥らうようなその一言に、ふわりと胸の奥に温かいものが広がった。手が無意識に胸を押さえる。
 顔が熱くなる。胸がぎゅっと何かに締め付けられた。今まで何も考えずとも見ることができた彼の顔を、なぜそのまま素直に見ることができない。
 いまだかつて感じたことのない湧き上がる動揺を何とか押さえつけて、冷静になれと念じながら三日月は彼の言葉を反芻する。彼の話を聞いて今までのことに合点がいった。やはりそうだったか。それで最初自ら話そうとはしなかったのか。
 だから自分がこの刀を知らなかったのも納得がゆく。
 軽く息を吐いてなんとか平静を取り戻すと、言いたいことを伝えて恥ずかしくなったのかまた顔を膝にうずめてしまった彼に優しく語りかけた。
「お主が気に入ってくれたのであればそれで俺もうれしい。甘いものは好きか?」
 こちらを見ないまでも彼はこくんと小さく頷いた。
「そうか、わかった。顕現したばかりであればまだ知らぬ菓子も多かろう。次も俺が気に入った菓子を持ってこようか」
 空を見上げる。徐々に暗くなっているようだ。もうすぐ夕方の刻限か。気を許してくれるようになったとはいえ、いきなり長居はよくない。少しずつ時間をかけていくとしよう。
「だいぶ時間がたったようだな、そろそろ俺は退散するとしよう。邪魔したな、また明日来るか」
 とぼけた声で言いながら立ち上がった三日月の袂に突然彼の手が伸びた。
 片膝を立てて少し腰を上げた彼は三日月の袂の布を掴みながら、物言いたげな眼でこちらを見上げていた。ただどうしても伝えたい言葉が出てこないらしい。
 長い前髪の間から覗く翡翠の眼が揺れている。
「どうした?」
 なかなか言わないのでこちらから声をかけるが、明らかに狼狽えたそぶりを見ていて、思うように言葉を紡げないでいる。話すのがまだ慣れぬと言った彼をせかすのはよくない。
 そっと彼の手の甲にてのひらを乗せる。温かな体温が素肌ごしに伝わる。こんなにもその体は温かい。
 だから大丈夫だ。お主の中にはぬくもりを伝えられる優しい心がある。
「大丈夫だ。ゆっくり話せばよい」
 子供をあやすような三日月の優しい言葉に焦る心が多少落ち着いたのか、強張っていた彼の顔が安心したかのように緩む。一つ、二つと彼の口から大きな吐息がこぼれた。
「あんたに謝らなくてはいけないことがある」
 再び掴む彼の手の力が強くなる。告げるための勇気を己の手から貰い受けるためにか。
 だが見つめられている三日月の方が逆に戸惑うしかなかった。
「さて、俺は何を謝られなくてはならないのだ?」
 本気で思いだせなくて尋ね直すと、あきらかに呆れた顔をされた。
「何をって忘れたのか。あの最初にあんたと会った雨の日、見ず知らずだった俺なんかに傘を貸してくれただろう」
「傘とな」
 突然そのようなことを言われてすっかり忘れていた三日月は思いだすのにしばし時間がかかった。
 頭の中に不意に浮かんだくるくると回りながら空を舞う朱塗りの鮮やかな色。暗い灰色の空に浮かび上がった赤い色はあまりに鮮烈で。そうか、あれは傘だったな、ほんの数日前の事なのに忘れていた。
「そういうこともあったな。お主がどうやったら話してくれるかばかり考えていて忘れていたぞ」
 ぽんと手のひらに拳を叩いて、やっとそれを思いだした。思っていた反応と違ったのか、今度の彼の顔には明らかに驚きと戸惑いの色が浮かんでいた。
「あの時のことを忘れられるのか。あんたは俺なんかに傘を貸したせいであの雨の中帰って行ったんだ。当然ずぶ濡れになったはずだろ」
「ふむ、だがお主は濡れなかったのであろう?」
「ああ、しかし俺なんかのせいであんたが濡れた。だから俺はそのことを謝らなければいけないと、いつも思っててなかなか言えなくて・・・本当にすまなかった」
「気にするな。俺がしたくてしたことだ。むしろお主が濡れてないか心配していたぞ。なるほど、傘は使ってくれたのだな。それで俺は満足だ」
「ちょっとまて、あんたは本気でそう思っているのか?」
「そうは見えぬか?」
 心の底から嬉しさに満面の笑みを浮かべた三日月を呆然とした表情で見つめた彼は不意に口元を皮肉な形に歪めた。自らを嘲るかのように苦い笑いをこぼす。
「なんだ、俺だけがいろいろ思い悩んで、なんだかバカみたいだったな。あんたがこんな変わった奴だなんて思いもしなかった」
 三日月の袂から力なく手が離れた。力なくすとんと腰を落とすと、がくりと首を落し手で額を抱え込んだ。
 また急に落ち込んだ彼に三日月は優しく諭すように語りかけた。
「俺もまだ大層なことを言えるほど理解したわけではないが、人という存在は本質は個だ。影響はしあうだろうが、重なり合うこともまじりあうこともない。三日月宗近という俺はどこまでも俺でしかなく、お主はお主だろう。だから何も言わねば相手の事などわからぬし、俺とてお主が話すまでは何も知ることはできん。互いに分かり合いたいと思うならばまず話し合う努力が必要ではないか。我らは人の姿を与えられたのだ、少しずつそれに慣れてゆけばよい。なに、お主が他の者よりも顕現が遅いからと焦ったり戸惑ったりすることはない。皆最初は同じよ。この俺も始まりはそうであった。だからお主が望むのであれば、俺も同じ刀として人の姿に慣れるための手伝いくらいはできるぞ」
「あんたが、俺なんかのために?」
 おそるおそる尋ねるその声はなぜかためらいと不安がにじんでいる。まだ自分をさらけ出すことのできない彼を安心させようと、三日月は当然だろうと笑った。
「ただ俺はな」
 静かにつぶやいた三日月は膝を曲げてその場にしゃがみこむと、目線をまっすぐ彼に合わせた。そして彼のてのひらをそっと自分の手で包み込む。優しく、労わるようにそっと撫でる。
「お主のためにできることをしてやりたいのだ。それではいかぬか?」
 手を取られたまま硬直していた彼は急に顔を真っ赤にさせた。こちらを見つめる翡翠の瞳がかすかに潤み揺れる。
「あんたがいいなら俺は構わない・・・」
 零れ落ちたその小さな言葉は森の中を駆け抜けた風の音に紛れ消える。
「ではまずは名を教えてくれぬか、猫殿」
「なんだその勝手な呼び名は」
「お主がなかなか名乗ってくれぬのでなあ。お主がなんとなく猫のようであったのでそう呼んでいたのだ。教えてくれぬのであれば呼び名は猫殿のままであろうが・・・」
 むっとしたのか軽く眉根を寄せたが、彼は口を少しとがらすとほんの少し唇を開いてため息をこぼした。
「やっぱりあんたという刀がよくわからない」
「そうか? 俺はいたって普通のつもりだが。ではお主は俺に何と呼んでほしいのだ?」
 ほんの少しの間は躊躇の為か。軽く瞬いて彼は力強く名を告げる。
「俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ・・・」


 やがて長く寄り添うように戦い続ける二振りのこれが始まり。

 

 

                                                 = TOP =