ゆめうつつ

刀剣乱舞・文豪とアルケミスト関連の二次小説。主にコメディ中心。

未想 ~山姥切・三日月~

『その想いの名はまだ知らず』

※ほんわか腐表現あります。

 タイトル通りみかんばなので無理という方は回避してください。 

 

 暗くよどんだ雲から舞い落ちる雨はいまだ降りやまず、さらさらと落ちてゆく細かな音は心までも沈ませる。

 この季節は嫌いだ。

 なぜと誰かに問われればその理由をうまく言葉に表すことはできないだろう。

 ただこれだけは分かっている。

 人の身を与えられ、初めて見たこの世界の美しさ。移ろいゆく四季の流れにたとえ心が揺り動かされ、安らいだとしても、いつまでも終わりがないかと思うほど細かく降り続ける長雨だけはどうしても好きになれなかった。

 今は人間の器をしているが自分の本性は刀だ。刀は水に触れれて必要な手入れを怠ればやがて錆びてゆく。朽ちて、零れて、ボロボロになった刃を持った刀はもうその力をふるえない。

 人となった今は水浴びやら風呂やら野外の雨降りやらずぶぬれになる機会も多く、まったく気にもしないで水に触れている。だがこの長雨の季節になると重く漂う湿気とやらのせいで、雨の下でなくても身体に水がまとわりつかれるような感覚がして刀として水を忌避しなければと言うことをおぼろげに思いだしてしまう。

 俺は刀だ。だから顕現した当初はこの季節に戸惑いもしたし、だから嫌いなのだと思っていた。

 だけど今は、それだけではない気がした。心の奥で知らずのうちに疼く何か。

 山姥切国広は胸元を握りしめ、静かに瞠目する。

 この本丸に俺が顕現してから幾度目になるのか、また今年もいつ終わるともしれない陰鬱な梅雨の季節が訪れた。

 

 

 空が黒い厚雲に覆われて陽の光が差さない今日、縁側の廊下は昼だというのに薄暗い。陽がさしている晴れの日には仲間たちが集まって穏やかな憩いの場ともなりうるそこは、陰鬱な雨の日ともなればいつの間にか皆の足も遠のき、用がない限り誰も通らなくなる。

 山姥切は自身の足で軋む音ばかりが響く廊下をややうつむきながら歩いていた。いつもより目深にかぶった布はいかなる表情をも隠し、その心はうかがい知れない。

 審神者の部屋のある離れへと行くにはこの縁側の廊下を通るのが一番の近道だ。

 だがこの廊下を通れば視界にはその濡れた庭が目に入ってしまう。見まいとしながら歩いていたが、軒からこぼれた雨粒の大きな音につられてつい布の陰から覗いてしまった。

 晴れている日とは全く違う光景がそこに広がっていた。

 降り続く雨に濡れぼそり、庭の木々も枝を重く垂れさがらせてどこか薄暗く元気がないように見える。

 庭の木々に春のような華やぎはもうない。暑苦しいほど濃い緑に色づく夏の季節にはまだ遠く、春と夏のどちらにもならないあいまいな季節。それだからか見えるこの景色がどこか不安定なものに感じられてしまう。

 さらにこの長雨だ。息苦しい暑さで空気はよどみ、じめじめして、うっとうしい。

 思い込みかもしれないが、梅雨の季節は写しである自分の心の内を表しているようでどうも落ち着かなかった。

 庭の様子に心を奪われかけた山姥切は用件を思いだすと、布で無理やり視界を遮って、廊下の先へと目線を向け直した。

「隊長―――山姥切!」

 誰かに名を呼ばれて後ろを振り返った。

 駆け寄ってきたのはこの本丸に来て一番長く共にした一振りの短刀、厚藤四郎だ。少年をやや抜けだした面立ちの彼は短めに刈った黒い頭髪がさっぱりとしていて、難しい事態に直面しても落ち着きは失わず、冷静な判断を下すことができる刀だ。

「厚か。どうした、何か用か?」

 もう呼び慣れたその名を言う。自分が気負いもなく呼べる名は兄弟以外には意外と少ない。

 この厚も名だたる数々の主の手を渡った藤四郎の名にふさわしい名刀だが、この本丸に顕現した彼はどうせみんな同じ刀だろという単純な考えで、気負いなど一切みせず誰に対しても対等なごく自然な態度で俺に接してきた。

 彼とは共に本丸の最古参という立場もあってか任務や本丸での仕事上話すことも必然的に多くなり、今では普通に名前も呼べるようになっている。

 駆け寄ってきた彼はいつものごとく単刀直入に用件を切り出してきた。山姥切の胸に向けて脇に抱えていた封筒をずいっと差し出す。

「政府からの文だ。これから大将のところへいくんだろ、ついでに渡してきてくれねえか。急ぎのもんじゃねえけどよ。俺はこれから薬研のところにいかなきゃなんねえんだ、用事を頼まれててさ」

 言い方はざっくばらんだが、決して相手に押し付けるような強引さはない。手紙を渡すくらいなら大した用事でもないので頷いて書類を引き取った。

「わかった。渡しておく」

 淡い銀灰色の桜模様の透かしが印刷された政府の正式な通達書。裏返せばご丁寧にも桜印の入った封蝋まで施されている。毎度毎度几帳面なことだ。

 手渡された厚みの薄いその封筒がいつもの封筒に比べて少し重く感じる。中に入っている書類が多いのか。

 通信技術とやらが発達したこの頃ではいまどき文でやり取りすることは珍しい。通常なら直接通信で審神者と政府がやり取りするらしいが、この本丸の政府担当者はなぜかこういった旧式の方法を好むようで重要文書ほどこういった仰々しい書類の形で届く。

 だから今回のこれもおそらく今後の任務に関する大事なものだろう。

 封筒をじっと見つめたがその中身など外側からわかるはずもない。表情の強張った顔を上げて、そういえばと目線を厚に向けた。

「薬研の手伝いと言っていたが、何をやるつもりなんだ」

「ああ、この長雨だろ。本丸のあちこちでカビが発生しているらしくてさ、それを撃退するための薬剤を作るって言ってたぜ。でもあいつの顔がすげえ笑顔だったんだよな。ああいう時の薬研って何か企んでいる時なんだぜ。なにやらかすつもりなんだか」

 軽く肩をすくめて厚は苦いものでもかみつぶしたような顔を浮かべた。

「薬研に伝えてくれ。やるのは構わないが、実験に失敗してまた本丸に被害を及ぼす真似だけはするなと」

「わかってるさ。俺だって巻き添えくって長谷部に叱られたくねえもんな。でも山姥切が注意しろって言ってたってことは薬研にちゃんと伝えておくからな」

 にかっと歯を見せて笑顔を浮かべると、厚は手を上げて再びもとの来た方角へ引き返していった。再び薄暗い縁側の廊下には山姥切だけが取り残される。

 とたんに耳に届く音が大きくなった。庭に叩きつける雨音が迫ってくる。

 誰の声も聞こえなくなった空間では雨の音がさっきよりもさらに大きく聞こえる気がした。

 庭に降り注ぐ雨は強くなったようには見えないのに。ただ音だけが耳によく響く。

 不快な思いを振り払うように頭を横に振る。顔をこわばらせて審神者の部屋へ向かおうと身体の向きを変えた時、ふと視界の中に映った何かに気を取られた。

 青く、赤く、丸く雨の中に浮かぶ。葉の茂る庭木にくっついている淡い色合いの丸い花模様の手鞠。ちがう、あれは雨の花。紫陽花だ。

 花の玉は一つだけではない。庭の中に点々と植えられた紫陽花は青、紫、白とそれぞれに見事な花を咲かせていた。

「いつの間にか咲いていたんだな」

 毎日通るはずのこの縁側の庭にはたしかに紫陽花はいくつも植えられていたはずなのに今になるまで気付かなかった。これだけ咲いているのに廊下をただ通り過ぎていたのか。

 雨の時は庭をなるべく見ないようにしていたから目に入らなかったとしても当たり前か。

 紫陽花の葉は雨に濡れている方が生き生きしている気がする。どこか薄暗く思える庭の中でもなぜかこの花々だけは濡れる雨の中で鮮やかに浮かび上がっていた。

 自分が立ち止まっている縁側の軒下のすぐそばで青い大輪の紫陽花が咲いていた。

 掌で抱えるほどの大きさに育った花だ。ここまで育てるにはこまめに手入れをしなければできるはずもない。庭の草木を育てるのが好きな誰かが自主的に紫陽花の花も世話しているのだろう。

 山姥切は雨に濡れる青いその花をじっと見つめた。軒先から少し外へ伸ばせば手が届きそうだ。

 片膝を曲げてその場にしゃがみこむと、濡れるのにも構わずに屋根の外へと右手を伸ばす。花に触れる手前で指先が少し葉先に触れた。

 指に触れた葉は思ったよりも堅いつやのある葉だった。触った衝撃で水滴がはぜる。紫陽花の葉に触れた指先がほんの少し水に濡れた。

 水滴は存外冷たかった。生ぬるい外気に触れていた水のひんやりとした感覚は指先だからこそ敏感に感じられた。

 湿り気を帯びたこの感じ。どこかでこれと同じ感覚を指先に触れたことがある。

 でもあれはこんなにも冷たくはなかった。

 温かい、いやもっと指先にぬめりとした熱を感じた。

 吹きかけられた吐息と同じくらい熱く、濃厚で。そして下から覗き込むように見つめる瞳の色は深遠を映した夜の闇を抱いて、指を口に含み見上げながら自分の眼の奥を暴こうとまっすぐ貫く。

 そこまで思いだしかけて、はっと目を見開いた。

(俺は今、何を考えていた?)

 紫陽花に触れていた腕を戻し、濡れた指先をどこかうろたえた眼で見つめる。

 その右の手首をぎゅっと握りしめて胸に押し付けた。

 あの時のことを考えまいとしていた。思いださずに忘れてしまおうと思っていた。

 それでもこの指先にはあの時の熱がまざまざと思いだされる。

 山姥切は一振りの刀の姿を思い浮かべる。月の名をその身にもつ三日月宗近

 本丸の同じ屋根の下で暮らしている以上、顔を合わせないということはできるわけもない。それでも廊下などで偶然出会ってすれ違う時は動揺しないように俯いてなるべく視線を合わさないようにしてきたが。

 三日月はあの時のことは何も言ってはこない。

 あれはいつもの戯れにすぎなかったのか。だったら俺だけがこんなにも意識してしまっているのは滑稽だろう。

 きつく目をつぶってもまぶたの裏にはもうあいつのあの眼が焼き付いていてしまっている。

 庭に降りしきる雨はまだ止むことはない。いつまでも終わりがないように。

 雨音がうるさい。地面に打ちつける雨粒の音が耳障りだ。それほど大きな音でもないのに、どうして心の不安をかき乱すように大きく響くのだろう。

 ぎゅっと閉ざしていた目をほんの少し開けた。ぼやけた視界に青の花の色がはっきり映る。

 紫陽花は時がたつにつれ色を変える。この紫陽花の木も下の方を見れば紫がかった花が少し混じっていた。

 移り気な花。雨と共に色を変え、気まぐれにうつろうことを何とも思わない。

 あいつもきっとそうだろう。だからいつかきっと俺に飽きるにちがいない。

 今はただ俺が写しだから、名刀ぞろいのこの本丸では素性の違う変わった刀だと思って珍しいからまとわりついているだけだ。

 三日月のような比類ない天下の名刀が俺に興味を抱くなどあり得ないだろう。

 天下五剣が一振り。最も美しい刀とされる日の本の国の至宝。たいした謂れなど持たない俺が到底肩を並べていい存在なんかじゃない。

 山姥切は目を細め、彼に触れられた指を見つめた。

 あの時だってそうだ。あれだけ間近に迫りながらも突然興が冷めたと言って、それ以上何するでもなく立ち去って行った。三日月はあの後に何をするつもりだったのか、そして何をしなかったのかよくわからないが、気のきいたことも言えない面白みのない俺があいつを飽きさせたのは違いない。

 それまで常にまとわりついてきたあいつが突然俺と距離を置くようになった。人の世で作られたとは思わぬ秀麗な顔に笑みを浮かべ顎をかすかに上げながら、遠くから静かに見下す一瞥をただ俺に向ける。

 余裕ありげに視線を向けた三日月を思いだしてきつく拳を握りしめた。

 どうして態度を変えたのか。付きまとわなくなれば仕事など忙しいときに邪魔をされずに済むのに、なぜこんなにも心が物足りない気持ちになるのか。

 もう一度あの時の指先を見つめる。あいつは何を考えてこの指を手に取ったのだろう。

 考えるよりも先に身体が動いた。まず人差し指の指先が唇に触れた。そのままあの時の道筋をなぞってゆく。

 おそるおそる唇を動かしてゆく。触れるかどうかという微妙な感覚でそっとつたわせた。ただ自分でそんなことをしている恥じらいがどこかにあるのかどうもうまくいかない。

(あの時の感じはこうではなかった)

 指先が熱を帯びる様子もなければ、心が粟立つほど揺れ動かない。同じ気持ちに慣れないのは自分でただなぞっているだけだからか。

 なぜ三日月があんなことをしたのか知りたい。躊躇しても何も得られない。ここと同じ庭にのぞむ縁側であいつは何を思ってこの指に触れた。

 やってみたらどうだと心の片隅で何かが言う。

 まぶたを半分閉ざして細くなった目が揺れて愁いを帯びる。薄く開けた唇の間からほんのわずかに舌をのぞかせた。

 思い返す、あの時の動きを。上から下へ、下から上へ、じらすようにゆっくりと動かしていく。やさしくなぶるように指に舌を伝わせた。湿り気を帯びたその感覚が記憶の底を震わせた。

(あんたは俺のことをどう思っているんだ)

 心の中の問いかけに決して答えは返ってこない。

 指の頂点を舌の先で丁寧に舐めた。かすかに指を伝うしびれる感覚。だけど物足りない。三日月の唇が指に触れた時は全身が突き抜けるように震えた。

 もっとその先を追い求めようと目を軽く開いて指先を口に含んだその時だった。

 雨にけぶる庭先の紫陽花の向こう、木々の間に隠れて濃紫色の塗りの和傘が目に入った。庭に誰かがいる。指先の感覚に夢中になりすぎていたのか、周りが見えていなかったのは完全なる落ち度だった。

 反対の手でわきに抱えていた封筒が足元に落ちた。

 それが誰だか覚った瞬間、背筋が冷えた。目を見開き、急いで口元から指を離す。

 傘をさしながら立ち止まってこちらを見つめているのは三日月宗近。紫陽花のその向こうに佇む彼はこちらをじっと見つめながら、身じろぎもせずに立ちすくんでいた。

 いつもは細い目元が驚きからか少しだけ見開かれている。

(今のを見られた?)

 顔から血の気が引いた。この状況ではどんな言い逃れも通用しないだろう。顔を青くしたまま山姥切は舌の触れていた手を後ろ手に隠すと、この後どうするべきかわからずにただ頭の中を混乱させたまま三日月を見つめ返す。

 からかいか、蔑みか、冷笑を浮かべ呆れられるだけか。

 こんな誰かの眼に触れる可能性のある場所で俺は何をやっていたと悔やんでももう遅い。目じりを険しくして身体をこわばらせ、三日月がこちらに向けて言い放つであろう言葉を待つ。

 だがいくら時を数えても三日月は何も言ってはこなかった。いぶかしげな視線を送ると、あちらもなぜか我に返ったような顔をしてそして遅れてふっと口元で笑った。

 一言も言わず、うっすらと口元に笑みを浮かべると三日月は何事もなかったかのように背を向けた。

 紫の傘がけぶる雨の中に消えてゆく。

 縁側に取り残された山姥切は三日月の後姿を見送るとほっと胸のつかえを降ろした。だが三日月に今のすべてを見られたのではないかと疑惑が振り払えずにいる。

 意味ありげなあの笑み。きっとそうだ。

 今更ながら自分がしていた行為について恥ずかしくなり顔全体が真っ赤になる。口元に手を当ててうつむくしかない。

「なにをやっているんだ、俺は」

 いくら考えてもわからない。相手どころか自分の事すらわからない。いつもだったらあんなことをしようだなんて考えないはずなのに。

 おかしい、どう考えてもおかしくなっている。

 まぶたを閉じてももうあいつの、三日月の美しい顔が消えることはなかった。脳裏にはもう、あの時触れるほどに近づいてきた三日月が自分を見つめて浮かべたいつになく優しげな笑顔が焼き付いてしまっている。

 ずるずると崩れ落ちるように廊下に膝をついてしゃがみこんだ。苦しげに服の上から胸をかきむしるように掴む。

 俺は刀だ。心の奥より湧き上がる得体のしれない感情を抑え込むように強く言い聞かせる。

 この人の身を審神者によって仮初めに与えられているだ。戦うために、ただそれだけのために。

 それなのにこの乱れて収まらない想いはいったい何なんだ。心が、感情が、暴れまわって制御出来なくなっているのは俺が写しで未熟だからか。

 羞恥と戸惑いと、自分を混乱させている本当の原因はなんなのか。

 考えれば考えるほど頭の中がごちゃごちゃになる。訳が分からなくなって頭を抱え込んで膝にうずめるしかできなかった。

 

                ※ ※ ※

 

 広げた傘の下から三日月宗近は灰色の空を仰ぎ見た。

 濃い紫色に染められた和紙を重ねて竹の骨に張り付けたこの国古来よりの傘はこの草木の多く植えられた庭園によく似合う。

 天上から次から次へと零れ落ちてくる恵みの雨は降り止むことはない。

 本丸にいる短刀の子らが教えてくれたところによると今は梅雨という季節だそうだ。長ければひと月は雨が地を濡らす。それは大地に恵みを与え、来たるべき夏へとつなぐ大事なものだと。

 三日月は千年という長い時代を存在してきた刀だ。だが生まれ出でしときより最も美しい刀として絶え間ない数多の称賛を得てきたその代償に、館の奥深くに大事にしまいこまれて外を見るという機会を奪われてしまった。

 それを今、審神者から人の身を与えられることで存分に味わっている。

 刀の姿であった頃には感じることすら難しかった。雨のしずくにあたることも、傘を差して庭を自由に歩き回ることも。目にするもの、触れるもの、五感で感じられるすべてが愛おしい。

 刀であった頃には刀身を損ねるということで嫌われた雨ですらも、三日月は気に入っていた。天より降り注ぐ大地を潤す水の滴。なんと不思議なことだろう。

 本丸を囲む庭も晴れている日とはまた違った趣を見せるのが面白い。この季節に陽光にきらめくのは木々より萌える若葉だが、雨となると若緑色のその葉も空の色を映すのか生気を失いどんよりとした色に沈む。代わりに雨に打たれて色鮮やかに浮かび上がるのは庭のあちこちに飢えられた見事な紫陽花の花。

 子どもが遊ぶ手鞠ほどの大きさに育ったその花は芳香は少ないながらも、灰色に澱む雨の庭に色鮮やかな色彩を与えていた。

 雨が降り注ぐばかりで誰もいないがゆえにここは寂しい庭であるはずなのに、色とりどりの手鞠の花がにぎやかしく彩りを添え暗がりに沈みかけた庭を明るくする。晴れの日も良いが、雨には雨のまた良いところがある。

 やはりこの国の季節とはこの身を持って愛でるべき美しきもの。箱庭のようなこの本丸ですら愛おしげに思えてくる。

 三日月は庭木の間を縫うようにゆったりと歩を進めた。濃い紫の色をした傘を楽しげな仕草でくるりとさせる。雨の中の散歩もいつもの景色と趣向が変わってまた一興。

 背が高く茂った紫陽花の木の向こうに隠れるように建物が見えた。黒光りの瓦が重厚に屋根を覆うあの建物はこの本丸の中核をなす表の館だ。刀たちの居住である少し離れた棟の三日月の部屋から縁側に出てずっと庭を伝って歩いてきたが、もうこんなところまで来たか。

 三日月はふと目を細め、その端正な顔で首を傾げ思案する。

 さて今度はあの館の中でも巡ってみようか。ただ今日は雨でありながら朝から慌ただしく出陣やら遠征やらで外出している者が多いらしい。暇をしている誰かで俺の茶の相手をしてくれる者でもおらぬものか。

 何気なしに三日月は庭の抜け、黒い瓦のその建物に近づいて行った。視線を遮る木々を回り込み、建物に面する庭へと姿を現す。

 屋根の庇に翳って薄暗くなっていた縁側に人影を見つけた。白い布をかぶった細身の姿を見た瞬間、なぜか足が止まる。

 いつもならばもう声をかけていよう。嫌がるのを承知で戯れの言葉を投げかけいるはずだ。だが三日月は今の彼に言うべき言葉が見つからない。

 だが遠目からでも彼の様子がいつもとは違うのが気配で分かった。何より顔、あのような物憂げな表情をすることなどあっただろうか、あやつは。

 遠目でも昼であればこの眼はよく見える。己の指をなぜか切なげに見つめながら唇を這わせている。ゆっくりとなぞるようにつたうその艶めかしい動き。躊躇いながらもだんだんと妖しく舐められていく利き腕のひとさし指。

 何かを確かめているのだろうか。山姥切の青がかった翠の瞳が徐々に愁いに濡れてゆく。

 三日月は目の前に起こった出来事に目を見開くばかりで、降りしきる雨の中、虚ろにその場に立ち尽くしていた。

 あまりに熱を込めて見つめてしまったせいだろうか。己の世界に入り込んでいた山姥切が不意にこちらに顔を向けた。しまったと思った時にはもう遅い。

 三日月の姿をその眼の内に認めた瞬間、羞恥によって彼の頬が薄くだが赤く染まる。

 慌てて手を隠して顔をこわばらせ、目は明らかな戸惑いを浮かべながらもこちらを探るように凝視している。

 一連の出来事を見つめていた三日月の脳裏にある考えがひらめいた。

(あれはもしやあの時の?)

 すぐさまその荒唐な考えをまさかと打ち消す。いつもはつれぬあやつがそのようなことをするものかと。

 しかしそうとなるとなぜそのようなことをしていたかという説明ができぬ。

(果たしてこれは俺の自惚れか、思い上がりとなるか)

 湧き上がる愉快な感情に口元もつられて笑みを浮かべる。

(いささか生真面目すぎて戦いのこと以外興味はないのかと思っておったが。これならば俺の仕掛けた駆け引きがさすがの山姥切にも効いてきたと望みを抱いてもよいか)

 俺の姿を見て動揺し、言葉を失くして顔を紅潮させた。うすうす気付いている他の刀にあなたは攻めすぎですと言われたから、少し近づくのを遠慮してはいたがこれはどうやら効果はあったようだな。

 思わぬ満足を得られた三日月は身をひるがえす。もう振り返る必要もない。

 あやつの視線はこの俺の背にしっかりと逸れることなく突き刺さっている。

 熱い視線を浴びたまま優雅に歩みながら彼から遠ざかった。楽しげにくるりと傘を回す。

「少しは悩め、国広。つれぬお主にこの俺が思い悩んだくらいはな」

 

 

 

 

  梅雨あたりなので季節はずれですが、なかなか筆が進まないと言うか、こういう展開って書いたことがないのでこれでいいのか悩みましたが。

 ネットでのいろいろな考え方を見て自分の書きたい光景を描ければそれでいいのかなと書きながら少し考えを改めた次第。

 はたしてこの先はすすめた方がいいのでしょうか・・・? 需要はあるのかわかりませんが。