鍋の宴 ~織田・太宰・坂口~
【注】坂口安吾・織田作之助・太宰治の回想・手紙ネタバレあるので注意。
「地獄からの招待状や・・・」
届けられた一通の手紙を読むなり、織田作之助は顔を青ざめさせた。
文面にはこうある。
『織田作之助へ せっかく現世でそろったことだし、太宰と一緒にまた鍋を囲んで語ろうじゃないか。鍋の材料とかは俺が用意するからオダサクは楽しみにしていな。 ―――坂口安吾』
突然カタカタと震えだした織田を同じ部屋にいた室生犀星が心配してそばに寄ってきた。
「どうしたんだい、織田君。・・・ふうん、坂口君からの招待状か。いいじゃないか、無頼派同士で鍋をつつきあって旧友を温めておいでよ。いいね、なんか楽しそうだな」
「犀星先生、これはそないな楽しい集まりやないんや。先生はあいつがつくる鍋の怖さを知らへんのやから楽しいなんて言えるんや」
「怖いって、鍋やるだけだろ? どう作ったってそんなにまずくなるもんじゃない。食べられるものさえ入れていれば」
「そんな甘いもんやあらへん。とにかく安吾の作る鍋、安吾鍋言うんやけど、あいつの気分ひとつでとんでもない味になるんですわ」
「俺は知らないからよくわからないけど、でも鍋か。つながりのある仲間でやるのっていいな。ねえ、俺たちもやりませんか、秋声さん」
突然話を振られて、秋声は驚いて振り返った。
「いきなりなんの話だい」
「金沢ゆかりの文豪として親交を温めませんか。泉鏡花さんがいらっしゃったら、鍋でも囲んで。そうですね、鍋の具はやっぱり金沢だからブリでどうでしょう」
「だけど鏡花はいつ来るかわからないよ」
少し困惑気味に徳田が声を返す。心なしか元気がないのはいつまでも現れないことを気にしている証拠だろう。
「なら歓迎会でどうですか。あ、でも同じ鍋を箸でつつくのは無理ですかね」
それを聞いて秋声がさらにため息をつく。
「まあね、鏡花の奴は潔癖症だから・・・」
「なにやら楽しそうな話だな。我はのけものか、秋声」
後ろから声をかけられて秋声がびくっと振り返る。冷ややかな目線で腕を組みながら尾崎紅葉が秋声のすぐ後ろに立っていた。
「紅葉先生・・・」
「別にいいのだ、弟子たちが仲良くしているのは。我は一人さびしく酒でも傾けようか」
「うわ、だからそうやってすぐ拗ねないでください!」
その時何かを思いついたのか、室生が目を輝かせて提案した。
「でしたら俺のところの北原一門と合同で鍋を囲むのはどうでしょう。みんなで集まったほうが楽しいですよ」
「ふむ、悪くはないな。北原の者たちと詩情について語り合うのもよいかもしれん。秋声、鏡花が来たときにそのように手配をしなさい」
「また勝手に決めないでください」
にぎやかな第一会派の面々の騒ぎをよそに、織田はひとり手紙を握り締めてつぶやいた。
「こうなったら仕方あらへん。腹くくるしかあらへんな。安吾がまともな鍋を作ってくれることを祈るだけや」
「よお、太宰クン。暗い顔やなあ」
先を歩いていた太宰がゆっくりと振り返る。その顔は明らかに疲れ切って生気がない。
「よくそんな元気でいられるな、オダサクは。これから安吾の作る鍋を食わされるかと思うと胃が・・・」
力なく言うと胃のあたりをさすり始める。こいつも安吾鍋の犠牲になったことがあるらしい。織田は手にした小さな紙袋を上に掲げた。
「一応森先生から胃薬はもらって来たで」
「それが効くような代物かよ」
「さあなあ、すべては安吾のノリ次第って・・・おい、あれは」
会場に指定された食堂にたどり着いた織田たちは厨房の中を見て絶句する。
二人に気づいた安吾が鍋の向こうで機嫌よく笑いかけた。
「やっときたか、待ってたぜ」
黒づくめの衣装のまま、安吾は片手を腰に掛けてけだるげにそこに立っていた。
だが二人の眼は彼よりもその前にしつらえられた物体にくぎ付けだった。
厨房のコンロには明らかに巨大な大鍋が火にかかっている。その中にはなみなみと満たされた何かの液体が煮立っていた。
「安吾、これなんだよ?」
顔をひきつらせながら太宰が聞く。その大鍋は明らかに3人で食べる分をつくる大きさではない。
「何って、鍋に決まってんだろ」
「それにしては大きすぎやおまへんか。ワシらのほかに誰か食べに来るんかいな」
「いや、俺たち三人だけだな。食べるのは。それともなんだ、お前ら俺の作る鍋が食えねえっていうんじゃねえだろうな」
笑顔で凄まれて二人はぶんぶんと首を振る。安吾の気迫に後退った足が何かにあたった。
織田は怪訝な顔をして見下ろすと、そこには空になった空き瓶が転がっていた。一つ、二つではない瓶がごろごろしている。
「げ、なんだよこれ。安吾、まさかこれ全部飲んだんじゃねえだろな」
「あ? 酒くらいいいだろ。てめえらがなかなか来ないから暇でな。ちっ、司書の奴、ヒロポンくれって言ったらそんな危険なものはダメだとめっちゃ罵倒されたぜ」
「あたりまえや。俺たちが昔あたりまえに使ってたんは今の世の中ではほとんど禁止薬物やで。あのお堅い司書はんが簡単に渡すかいな」
「それで酒かよ・・・しかもウィスキー・・・おまえそんなに飲めなかっただろ!」
慌てる太宰を横目に、空を見上げて坂口は愉快そうに笑った。
「ははっ、生まれ変わるっていいよなあ。あんなに俺は胃が丈夫でなかったが、甦ってからはすこぶる元気でな。どれくらい飲めるか試してみたんだよ」
「だからって飲みすぎはよくないだろ」
「はん、お前に言われたかないね」
「聞けよ、安吾・・・」
さらに言葉を続けようとする太宰を織田は腕を横に差し出して止めた。
「やめとけ、あいつのペースに巻き込まれたら終わりや。あいつああは言っとるけどな。たぶんこの酒瓶ダミーやで。安吾はそんなに酒飲まれへんのは変わってないんや。それが証拠にあいつ、同じ場所に立ったまんまやろ。いつもやったら大酒を飲んだら場所動いとらんと落ち着かんはずや」
はっとして太宰も坂口を見返す。確かに酒を飲んでいるはずなのにその場から動いていない。少しでも酒を飲めば動いていないと落ち着かないと自分でいつも言っていた奴なのに。
いたずらの光を眼に宿らして、坂口は軽く酒瓶を手に掲げた。
坂口は愉快で愉快でしょうがないのだ。自分らと再び出会えたことに。
だからこんなふざけた戯れをしている。遊んでいる。ほんの偶然が出会いを生んだ、都会の片隅のバーにいたあの夜のように。
(鍋ぐらいつきおうていかなあげまへんな。ワシらはあいつより先に勝手にいなくのうてしまったさかいなあ)
自然と口元が勝手に笑う。それを見た坂口も呼応するように笑みを浮かべた。
何も入らずにただ水が煮立っている鍋を見下ろしながら、織田は呆れたようにつぶやいた。
「それにしたってこの鍋水以外なーんもはいっとらんやんか。具はどうするんや」
「ふん、手配はしておいたぜ。そろそろ届くはずだ」
扉の開く音がして、誰かが食堂に現れた。かかげた籠からひょっこりと鮮やかな赤い髪をした青年が顔を出す。
「お届け物でーす。坂口さんいらっしゃいますか?」
「おう、待ってたぜ。こっちに回ってくれ」
現れたのはとりどりの野菜が入った籠を持って現れた武者小路実篤と宮澤賢治、そしてなぜか小林多喜二だった。小林は二人の陰に隠れてこちらの視界から外れようとしている。
「今日の野菜たちはいいのがそろってますよ。どれ使います?」
籠を下ろした宮澤が真っ赤に売れたトマトを片手ににっこり笑った。
トマトにキャベツ、ピーマンにナスにいもとこれもあれもと次々と籠から出てくる。中には何の野菜かわからない珍しいものもある。テーブル一杯に広げられてこれからここで店を開くつもりだろうか。
「どっから持ってきたんやこの野菜」
あっけにとられる織田にきょとんとした顔で武者が答えた。
「どこって菜園からですよ。とれたて新鮮だからおいしいはずですよ」
はっとしてあることに思い至った織田はにじり寄って武者に詰め寄った。
「ってあんた、確か最初に司書はんに畑欲しいゆうて申請しはった時は庭にちっさい花壇を一か所もらいはったはずだけやなかったかいな。あの大きさでこないにたくさん野菜は取れへん」
「あれだけじゃ少なすぎましたからねー。開拓したんですよ。図書館の周りの使っていない空き地を切り開いて。僕は現在会派に所属していないので時間だけはあまるほどありましたから」
「何の話や。ワシは聞いてまへんで?」
「永久助手の室生君には話通してありますよ。彼は図書館の庭園を破壊して菜園にされるのが嫌みたいなので、快く了承をもらいました。ここは助けてくれる人がたくさんいて助かりましたよ。おかげでずいぶん開拓がはかどりました」
にこにこと笑顔を絶やさない武者に織田は頭を抱えた。
「武者はん、またここに村でも作らはるつもりでっか」
「いやだなあ。僕だってやることがあるしそんなたいそうなものは作らないよ。あ、でも田んぼはつくりたいかな。有機農法とか今はいろんな農業の技術があって面白いよね。織田君も司書さんに口添えしてくれると助かるけど」
どこがたいそうじゃないものなのか。かつてのように壮大な夢を熱く語る武者はもう彼の手には負えない。
厨房の中では野菜を持ち込んだ宮澤が手を洗って腕をまくると野菜を片手に坂口と語り合っていた。
「最近、都会ではトマトを入れる鍋というものが流行っているそうですよ。おひとついかがですか?」
「ほう、面白そうだな。適当に見繕って入れてくれ」
「はーい」
「ついでにそこにある野菜も適当に切って入れてくれ」
台所の様子を見ていた太宰が慌てて制止の声を上げた。
「ちょっと待ってよ、切るの大きすぎない? それに皮だって剥いてないだろ!」
「細かいことは気にしないでください。おなかに入れば同じです」
軽快な包丁さばきを見せながら、どう見ても鍋には大きすぎる形に野菜が切られていく。まな板の上に転がっていた一口では食べられない大きさの人参に手を伸ばし、太宰は顔をしかめた。
「小さいのに豪快すぎるだろ、あんたは」
切った野菜をこちらも豪快に鍋にブチ込みながら、坂口が愉快に笑う。
「小さいは余計ですよ。あと、トマトはまるごと入れたほうがいいみたいです」
丸のままのトマトが次々と鍋に投入されていく。
「これも・・・」
二人の後ろからぼそっと声がつぶやかれた。小林が足の長い立派なカニを手に掲げるようにして立っていた。しかもまだ足や爪が動いている。
「おー、見事なカニだな。ズワイガニか? そいつもどんどん入れてくれ」
坂口に言われてうなづくとそのまま何の躊躇もなく生きたカニが投入されていく。
「ちょっと待てよ、丸ごと?」
「カニはまるごとで釜ゆでしないとだめだ」
慌てる太宰に、小林は無表情のまま言葉を返す。
「それは釜ゆで用の鍋じゃない。別の鍋に水を入れて、あーあ、全部入れちゃったよ」
巨大な鍋はぶつ切りの野菜と飛び出したカニの足がぐつぐつと煮えようとした。
「いいじゃねえか、まるごと入れたほうがいい出汁でるぜ」
いつのまに手にしていたのか、坂口はウィスキーの入ったグラスを手にすると一気にそれを飲み干した。
「かー、うまい!」
「酒飲みながら料理の指示を出すなよ、安吾!」
必死に止めるが聞いちゃいない。混とんとしだした厨房を外から眺めながら、織田は顔を引きつらせる。
「あいつの相手は太宰クンには荷が勝ちすぎやな。ありゃ勝てんわ」
「あはは、坂口君って面白いねえ」
あくまで他人事のように笑う武者を織田は意地悪い笑顔でねめつけた。
「どうです、武者はん。ワシらと一緒に安吾の鍋、食いまへんか。未知の体験ができまっせ」
「うーん、お誘いはうれしいけど、僕には志賀が作ってくれたお弁当があるんだよ。しかも重箱で。安吾君の鍋をいただくとそっちが食べれきれなくなりそうだからね。お弁当を残すとすぐ文句を言われるし。そういうとこはうるさいんだよ、志賀ってば。だからまた今度誘ってくださいね」
本当に残念そうな顔でさらっと断りをいれて、厨房にいる二人に声をかける。
「宮澤君、多喜二君。まだ仕事が残ってるから戻ろうか」
「はーい、また必要でしたら声かけてくださいね」
「おう、ありがとうな」
坂口に手を振って宮澤と小林が厨房から出ていく。一緒に食堂から出て行こうとした武者の肩を誰かがつかんで引きとめた。
「ん、ほかに何か用あるのかい?」
思いつめた必死の形相で織田が肩越しに訴えていた。
「こうなったら意地も何もあったもんやおまへん。どんな手でも使えるもんは使いますわ。その志賀はんはどこにいるんや、あの人やったら安吾鍋の味の修正できますやろ」
「えーっと、志賀かい? 彼だったらまだ潜書中だよ、確かあと四時間くらい」
「潜書? だってそこに太宰クンはおるやろ、まだ終わってなかったんかいな」
ここ数か月、特命司書の命令で太宰と志賀が芥川を求めて潜書し続けている。しかしその成果はいまだ見えず、今日も二人には消えない精神的な疲労の色を見せながらも強制的に本の中へ探しに行かされたはずだ。
だがここには太宰がいる。なのになぜ志賀はまだ戻ってないのか。
「だって太宰君は今日は二十分で帰ってきたんだろう? 最近、彼の潜書時間が短くなっているって志賀が言ってたし。威勢いいわりにダメだよねえ。せめて一時間以上は持たせられないと。このままだと芥川君はそのうち志賀が連れてきてしまうかもね」
台所の向こうでちらちらとこちらに視線を送りながら聞き耳を立てていたはずの太宰ががっくりと崩れ落ちて台の上に突っ伏していた。失敗を容赦なく突きつけた武者のあっけらかんとした言葉に繊細な心を直撃されたらしい。自分を大きく見せようとする割に、自分に対する否定的な物言いには誰よりももろい。
何とも言えない顔で振り返って、立ち直れない太宰の様子に冷や汗をかいて確認した織田が再び問いかける。
「せやけど、そない長いなら調速機使えまへんか」
あの時間を早める不思議な時計の道具を使えばあっという間に帰ってこれるはずだ。だが武者は肩をすくめて首を振った。
「司書さんに無駄遣いはするなって使わせてもらえないんだって言っていたよ。芥川君がいつまでたっても来ないから、二人とも役に立たないとみなされたか、またはとっくに見放されたのかもしれないね」
「ずいぶんな言い方やおまへんか。志賀はんはアンタの親友やったはずやろ」
「うん? 僕は志賀にはこれが普通だけど?」
にっこり笑って武者は空になった籠を持ち上げた。
「戻ってきたら志賀には伝えておくけど、時間かかるから期待しないほうがいいと思うよ。じゃあ、坂口君の鍋楽しんでくださいね」
手を振って彼は軽快に食堂を出て行った。残された織田はがっくりと首をうなだれた。
入れ替わりに食堂へ誰かが入ってきた。
「こんどはどちらはんや? お、珍しいお人やな、谷崎先生やないか」
「ちょうどいいところに。君にこれを差し上げましょう」
いきなりぽんと重みのある木箱を渡された。
「鱧が食べたくなって取り寄せたのですが量が多すぎましてね。これはおいしいですよ。この鱧は女性の柔肌のごとく口に含んだときにふんわりと舌に感じますからね」
「先生、今日も相変わらずですな」
ちらっと視線を厨房に投げる。カニの足のはみ出た鍋を見たとたん、その端正なまなじりが険しくなった。
「なにかよくわからないものを作っているようですね。あなた方が勝手に食べるのは構いませんが、私は御免こうむりますよ」
「わかっとりますって」
ひらりと着物をひるがえして用が済んだとばかりにさっさと去って行ってしまった。
「あいかわらずマイペースなお人やなあ」
「オダサク、何をもらったんだよ」
厨房から坂口が顔を出す。
「谷崎先生から鱧やて。でもなあ、鱧は骨があるんやろ、そのままやったらワシらじゃ捌けんで」
木箱のふたを開けると、中にはきれいに捌かれた鱧の切り身が入っていた。
「お、ちゃんと骨切りしとるやないか」
「よし、こいつも鍋に入れるか」
織田から鱧の入った箱を取り上げるとさっさと厨房に戻ってしまった。
「ちょっと待ちや、せっかくのいい鱧や。もったいのうて・・・って
、ああ、入れてしもうたな」
「俺の鍋にはいい食材しか入れないからな。この鱧は合格だぜ」
「もう勝手にしいや」
「野菜と魚介だけやったらまだしも、鳥肉でも牛肉でもいろんなもん入れはって何の鍋やかようわかりまへんな」
すでにごった煮状態の鍋を見つめながら、織田と太宰は胡乱な目をしていた。入れ代わり立ち代わり食堂に現れる文豪たちが持ってくる食材を坂口は片っ端から入れていった。
ただ森鴎外が持ってきた饅頭だけは入れるのを身体を張って死守したが。まだ鍋らしい食材が入っているだけましな現状で、饅頭が入った時点で闇鍋決定だ。
鍋を指さして太宰が問う。
「それで味付けはどうすんだ。調味料は何も入れてないんだろ」
「ふん、ここにオダサクがいるんだ。決まっているだろ」
得意げに取り出したのは缶入りのカレー粉。そしてなにやら真っ赤な粉の袋の数々。
「缶の方はわかるんやが、そっちの赤い粉はなんなんや?」
「唐辛子だ。最近は面白いな。異国の地ではこの日本よりもはるかに辛い唐辛子があるのを知ってな、いろいろ取り寄せてみたんだ」
坂口はどこからか取り出したものを手にかざした。唐辛子の形をしているが緑色のままで一見しし唐のように見える。
「これは緑色をしているがれっきとした唐辛子だってよ。しかも辛さは赤い奴の数十倍。辛い物好きのオダサクにはうれしいだろ」
「まてや、ワシが好きなのはカレーや。別に辛いもんが好きなわけやないで」
「どっちだろうと変わんねえだろ、気にすんな」
すでに酒が入っていて人の言うことなんか聞こうとしない坂口は鍋に大量のカレー粉と唐辛子の粉をそのまま投入。緑色の唐辛子もそのまま放り込む。
ぐつぐつと煮込まれるそれは明らかに異常な色と刺激を放ち始めている。辛味が鍋から発散されるのか目まで痛くなってきた。
「あかん、人の食べるもんやあらへんで」
「大丈夫だ、オダサク。俺たちにはこれがある!」
そう言って太宰が自信満々に胸から取り出したのは小瓶に入った白い粉。
「この日本の歴史的発明品、味の素だ! こいつを振りかければなんだって食えるはずだぜ」
「・・・太宰クンもずいぶん錯乱しとるんやないか。そいつではこの鍋の辛さまでは消せまへんで」
「じゃあどうすっていうんだ、オダサク!」
そんなことを言われても織田にも解決法なんて思いつかない。目の前の坂口を見れば食べないという選択肢は残されていないだろう。
そもそもこいつが激辛カレー味の鍋にしようとしたのは誰でもない織田のせいなのだから。
「大丈夫だぜ、飯も炊いてあるからな。そいつにこの鍋の中身をかければお前の好きなカレーの出来上がりだ。前にカレーならいくらでも食えるって言ったよなあ」
「ワシが言ったのは普通のカレーライスでさかい。こんなよう真っ赤な血の池地獄のような液体をかけたもんではあらしまへん」
「ごちゃごちゃいうなよ。お前のために作ったんだ、当然食うよな。ほら、太宰も遠慮なく食え」
無理やり椅子に座らされた二人は目の前に置かれた赤い液体の物体を青い顔で眺めた。隣の太宰はもう意識が宙に飛んでいる。
だが目の前の席に陣取った坂口が意地悪く笑いながら見ている。逃げれるわけはない。
意を決してスプーンをその赤いものにすくって口に入れた。
その瞬間、口の中にありえない辛さと追ってくる痛みが脳天まで貫き、あわてて口を抑える。
「オダサク、大丈夫か!」
水を差し出されたが、首を振ってそれを拒んだ。辛いものを食べている時に水を飲むと辛さがさらに刺激性を増すのだ。
口を開けて息を荒く吐きながら、舌に残る辛味が消えるのを待つ。
「・・・けっこう辛いで、これは」
「おう、刺激的でいいだろ」
「そこに黙って一人で座っとらんで。安吾も一緒に食べまへん?」
にやりと口元で笑んで坂口はグラスを高く掲げる。なみなみと注がれた琥珀色の酒を見せつけるように中の液体を揺らす。
「俺にはこれがあるからな。お前が見抜いた通り、俺の胃はまだそれほど丈夫じゃないようだしな。だからそいつは食えねえよ」
太宰もほんの少しスプーンにのせて口を付けたところで悶絶している。鍋の中にはおそらく相当の量が残っている。
「自分食べれないんやらあんなに作るんやない。あれだけの量をどないするつもりや」
「何言ってんだ、あんたが全部食べるんだよ。オダサク。最初っから言ってるじゃねえか」
「あほう! 食えるわけないわ!」
目が回る。視界が揺れる。
ぼんやりとした頭が鮮明になる。
「ここは・・・」
目を開けると見慣れた天井が目に入った。少し頭を動かすと、程よく濡れた手拭いがわきに落ちる。
体を起こした織田は落ちた手拭いを拾い上げて不思議な目で見つめた。
「ワシはどうなったんや」
「おう、起きたか」
ソファの上に寝ていた織田の傍に白い服を着た奴が近づいてきた。具合を確かめるような目で見下ろすのは白樺派の志賀だった。
「志賀はん」
「お前、辛いものを食いすぎてぶっ倒れたんだろ? 無茶するよなあ」
呆れた調子で肩をすくめる。
視線を上げて目に入った窓は緋色に染まっている。肌寒くなった食堂で小さく肩を震わせた。
「そういや、安吾と太宰クンはどないしたんです?」
「二人ならそこに仲良く寝てるぜ」
二人は折り重なるように部屋の隅にあったソファで寝ていた。
どうやら太宰も織田と同じく辛さに負けたのだろう。坂口は酒のせいで眠くなったにちがいない。人騒がせなやつだ。
そこではたと思いだす。そうだ、あの鍋は。
慌てて厨房を見つめた織田に、志賀は少し困った顔で笑った。
「おまえらの鍋なら俺がなんとか食べれるようにはしたぜ。辛さを抑えるためにいろいろ入れて、だいぶ味を変えちまったけどよ。量もけっこうあったが食べたいやつに食ってもらって、今もそら、そこであいつらが食ってる」
食堂の片隅で中野重治と小林がそろってもくもくと鍋の中身を食べている。二人の前には何枚もの皿が積みあがっていた。
「あいつら食うからなあ。おかげでだいぶ減ったぜ」
「直哉さん、おかわりいただけますか」
「お、多喜二。お前まだ食べれるのか。潜書のあとは腹減るよな。ほら、中野もいるか?」
「すみません、お願いします」
注文を受けた志賀は厨房の鍋へ向かう。織田ものろのろとソファから身を起こすと、そちらに向かった。厨房を望める対面式の台に腕を乗せると力なくあごをその上に置いた。
志賀がかき混ぜている鍋の中は確かにかなり量が減っていた。しかもさっきの悪夢のような真っ赤な液体ではなく、程よい色合いの見た目にもうまそうなものに変わっている。
「辛いものには温泉卵を添えると辛味がまろやかになるそうだぞ。後は飲み物に乳製品なんかが辛さ軽減にいいらしい」
誰にともなく志賀は辛さの調節方法を語る。それを織田は鍋に視線を落としたまま黙って聞いていた。
「なあ、志賀はん」
「ん、なんだ」
かき混ぜる鍋を注視しながら志賀は返事をする。だがいくら待っても続きの言葉が返ってこないことに気づくと、すっと視線を織田の方に向けた。
「どうした」
「あんたはなんで助けてくれはったんですか。ワシら、あんたには批判や罵倒しかしてまへんのに」
「そうだな。昔は昔のことで、今は仲間だから・・・といってもあんたは納得しねえだろうな」
かき混ぜる手を止めて志賀はまっすぐに真剣な目で見つめる。
「昔あったことを否定する気はねえよ。俺の立場も、あんたたちも、どうにもならない状態だったことは事実だし、何を言っても今更言い訳にしかならねえ。ただな、もし前にあんたたちと会って率直に語り合うことさえできたなら、また違った道があったかもしれねえってことにここに甦ってから考えるようになってな」
「そんなことありますやろか」
「あるさ。たとえば俺は昔、プロレタリアの作家とは望むところが違うと受け入れられなかった。だがその連中の中に学生時代からひたむきに俺に手紙を送り続けて、あげく特高に追われて危険だとわかっていながら隠れて俺のところへ会いに来た奴がいてな。そいつと直に言葉を交わしてみてわかったぜ、書かれた文章からは本当のそいつなんてわかりゃしないっていうことをな」
「それは・・・」
優しげに細められた志賀の視線の先を追う。静かに語り合う二人の内、食堂でもフードをかぶって顔を隠そうとする小林の姿が目に入った。
「また出会えるってことはいいことだぜ、織田」
志賀は向こうで寝ている太宰たちの方を見た。
「太宰も大概生意気な奴だが、芥川を慕う気持ちは誰よりも強いはずだ。でなければあんなに毎日必死に潜書して探そうなんて気にはならねえよ。坂口だってそうだろう。突然こっちに転生してきて、訳も分からずお前たちとまた出会たことに嬉しいだけじゃねえか。はしゃぎすぎてこんなとんでもない鍋つくるのだけはどうかと思うけどな」
温めた鍋の中身を新しい皿に入れて、志賀はおかわりを待っている二人の元へ足を向ける。織田の傍を通りすぎる時立ち止まって、聞こえるぎりぎりの声でつぶやいた。
「残された奴はいつだってどうすることもできなかった悔しい思いを引きずるもんだぜ。それはわかっているよな」
「・・・あんたに言われなくてもわかってますわ」
自分は体が耐え切れなくなって血を吐いて死んだ。
ここに甦って自分のいなくなった後のことを初めて知った。太宰も自分の生に行き詰ってすぐ後に自ら命を絶ったと。そして安吾の心は自分の親しい者達の早すぎる死に徐々にむしばまれてしまったのだ。
(安吾は無頼派と呼ばれた俺たち三人のなかで一人残されて、何を思って作品を世に書き続けたのやろ)
どうしようもなく割り切れない思いを振り払うように、織田は厳しい目で志賀をにらんだ。
「あんたもわかったように言わはりますけど、どこかにそういうお方がいるんとちゃいますか」
「俺は長く生きすぎてどちらかというとおいていかれた方だからな。仲間でおいていったのは武者ぐらいだがあいつもそれ以上の大往生だからなあ。勝手にいなくなった奴なら、芥川だろ、多喜二に、自分勝手なお前らに、それに・・・」
志賀の眼がどこか遠くを見つめる。
何を見ているんだ。織田はいぶかしげに志賀を見る。だが彼は織田ではなく、その向こう、どこか違う何かをその瞳に映していた。
何もない宙に漂わせていた視線を元に戻すと、思いを振り切るように軽く首を振った志賀はふっと笑った。
「俺たちは司書の奴のおかげで奇跡的によみがえったんだ。お互いにやりたかった事を楽しめばいいんじゃねえか」
そう言い残して彼はおかわりを待っている小林達の元へと行ってしまった。むすっと頬を膨らませて織田は不満げにつぶやいた。
「なんやかわらへんな、あんたは。結局俺たちには上から目線やないかい」
「楽しむったって、そないなことワシに安吾がなにしたいかなんてわかりまへん」
腕を組みながらソファでいまだに眠っている二人の無頼派を見下ろした。
太宰を押しつぶしながら眠っている坂口の額に軽くデコピンをかます。口からくぐもった変な声が漏れたが、眠りが深いのかまたすぐに軽くいびきをかき始めた。
「今日の激辛カレーといい、えらい目におうたしなあ。結局志賀はんにも貸し作ってしもたし。安吾とつきあうのも大変やわ」
突然坂口が手を伸ばしてきて、手首をがしっとつかまれた。起きたのかと思ったが、目は閉じられたままだ。
うめき声と共に坂口は何やらつぶやいている。なんだろうと耳を寄せた。
「・・・おめえら、もう勝手に逝くなよ」
「安吾」
思わぬ形でこぼれた寝言に、織田は驚いて目を見開く。手首はさらに強く握られ、けして離そうとはしなかった。絞り出すような声音に胸が締め付けられる。
引き止められる、今のこの世に。あの時は終わってしまうことへの絶望に引っ張られて手を離さざるを得なかった。
―――死ぬのは嫌や。ワシは死にたいなんて思わへん。
―――あいつらと一緒にもう一度笑いたいんや。
意識が消える前に浮かんだささやかな願いはあの時は儚く砕け散ったけれども。
「わしはここにいるで、太宰君もや」
うつむいて織田はただ笑う。
「ここでまた出会えたんや。もう離れ離れになんかならへんで。そうや、ワシたちが命がけで残した文学を守るために一緒に戦うんや、安吾」
腕をつかむその手に織田はそっともう片方の手を添えて、ぎゅっと握り返した。
安吾さん来ました。無頼派はなんか若さのエネルギーがあっていいですね。
生前文学上派手にやりあった志賀とはそれぞれ心の中で何かしらは抱えているかと思いますが、今後ストーリーが増えるのかなあ。
= TOP =