五重塔 ~幸田露伴~
霧の奥に見え隠れする街は見慣れた東京の街であるはずなのに、時折すれ違う人はなぜか着古した着物をまとい、髪はすでに流行から廃れたはずの古風な形に結い上げ足早に駆け抜けてゆく。
藁で編まれた草履は土の上をこするように細い音を立てる。西洋靴の甲高い叩きつける足音とは全く違う。
自分とて西洋の靴を履いているのに、なぜだ、周りの者はみな草履に時折身なりの良いものは下駄をはいている。
そのくせ、誰も自分を奇異な目で見ない。初めから自分はそこにいないかのごとく、脇をすり抜けてゆく。
町の中を漂う人の形をした影だ。いや、もしやここに立つ自分の方が幻なのではないか。なぜなら自分はとうの昔に死んだはずだった。意識を失いつつあるあの時、体から力が抜け、思考はおぼろげに消えていった。
幸田露伴は腕を組みながら思案する。
気づけば自分はこの不可思議な街に立っていた。
年老いて自由の利かなくなった体なのに、目を開いてすぐ手を見るとしわだらけの老いさばらえた手のひらではなく、そこにあるのは張りのある若々しい手だった。
(これは本当に俺の手か)
顔を確かめようにもどこにも鏡の代わりになるようなものが見当たらない。
立ち止まっていても仕方がないので、露伴は街を探りながら歩く。歩けど歩けども不思議と位置が変わっているように思えない。同じところをぐるぐる回っているかのような錯覚を得る。
霧がかかって方向感覚がおかしくなっているせいか。それともこの空間そのものが普通の街とは違うのか。
それに今はいったい何時なのか。時を測れる空でさえも灰色におおわれて朝なのか昼なのかすら知れない。
露伴はしばし立ち止まって重く雲の垂れ込める空を仰いだ。
濃い霧の間から時折見え隠れするのは、あれは文字か。いよいよおかしい。文字が街のそこら中から湧き出している。
目をこすっても文字は消えない。それどころか街の建物から浮き出してさらに増えてゆく。
「さて、俺はこれからいかにすればいいというのか」
「姿を現さぬな」
両の腕を組みながら尾崎紅葉は霧の街を睥睨した。
「気配はしておる。私だからわかるのだ。露伴よ、どこにおるのだ」
「五重塔の最終ステージを制覇するたびに出現確率は上がっていくとの情報はあります。尾崎殿のおられる第一会派から第四会派すべてがこのステージを攻略しておりますがいまだ出現しておりません」
毛艶のよいグレーの猫がするりと紅葉の足下に現れた。その猫は口を開くと滑らかな人語を話しだした。
「ふむ、ということは露伴の奴が我らを避けているということか。前世の頃も奴は群れることを嫌った一匹狼だったゆえな。しかし猫殿よ、おぬしはずいぶんと身ぎれいにしておるな。毛艶がよくなっておる」
「室生殿が私と戯れるときに必ず丁寧に毛づくろいをしてくださるのです」
「ほう、あの人使いの荒い司書の助手でこき使われているのに、猫殿の手入れまでするとは。苦労なことだ」
微笑みをたたえながら紅葉は後ろを振り向くと、室生が照れたように頬を染めた。
「いいえ、俺に付き合ってくれるほんのお礼ですよ」
しゃがみこんだ室生は足下にいる猫の顎を優しく掻いてあげた。ごろごろと気持ちよさそうな音が猫の喉から鳴る。
「おおい、先生たち―、帰りのゲートが開いたでー」
長い三つ編みを垂れ下げた織田作之助が二人と一匹を呼ぶ。
「先生ものんびりしていないで急いでください」
徳田秋声が紅葉の背を押すようにゲートへと進ませた。
「わかっておる。秋声はせっかちだな」
「それは先生がのんびりしすぎているからです。早くしてください!」
街をゆく当てもなく歩いていると、足元に小さな黒いしみがついているのに気付いた。周りを見渡しても黒いしみを付けそうなものなどない。
(地面に黒いしみとは。これだけでも何かがおかしいと思うには十分・・・)
思考にふけっていた露伴は背中をつたう嫌な視線を感じてはっと目を見開いた。勢いよく頭上を見上げると、大きく見開いた目と視線が合ってしまった。
万年筆のインクを入れる瓶の形をしたそれは、ありえぬほど巨大化し、目や手がそこから生えていた。
インク瓶の無機質な目が露伴をとらえた。
黒い鎌のような刃が突如露伴めがけて襲い掛かる。後ろ飛びにかわして、立膝で地面にしゃがみ込むと、露伴は忌々しげに舌打ちをした。
「なんだっていうんだ、こいつは!」
躱されたことに怒りを覚えたのか、インク瓶の化け物は執拗に露伴を狙って刃を向けてくる。対抗できる得物すらないのに、こんな化け物に太刀打ちできるか。
露伴は迷路のように入り組んだ街を逃げるように駆け抜けた。これだけ軽快に対して息切れもせずに駆けたのはどれくらいぶりか。
それでも化け物の足は速い。黒い刃の切っ先が露伴に襲いかかろうと迫る。
避けるのも間に合わない、頭上に腕を交差して顔をかばったその時だった。
銀色の斬撃が宙を舞ってその化け物を切り裂いたのは。
目を見開くと襲い掛かっていた化け物は姿かたちを消していた。もちろん化け物を切り裂いた鋭い刃の幻影も。
黒いしみをまき散らして地面に落ちた敵を一瞥すると、小林多喜二は何かを探すかのように周囲を慌てて見渡した。多喜二の行動に気づいた志賀直哉が刀を振り払って汚れを落とすと、近づいて心配そうに声をかけた。
「どうした、多喜二。まだ敵でもいるのか?」
「いや、こいつが誰かを追いかけていた気がしたんだが」
志賀も見渡すが自分たち四人のほかに誰も見当たらない。気のせいかとも思ったが多喜二は時折自分たちの中で誰にも捉えられない勘を冴えわたらす時がある。
こいつの言うことに耳を傾けて損はない、志賀はそう考えていた。
「どんな奴だ?」
「短い赤い髪、肌はやや黒くて体つきはかなりいい。でも俺には覚えがありません」
「・・・へえ、そりゃお前は知らなくて当然かもな」
志賀は何に思い至ったのか愉快げな顔でにやりと口元で笑う。
霧が少しずつ動いてゆく。不意に志賀が町の向こうに視線を向けた。
「何か聞こえる。これはのみの音か」
多喜二も耳を澄ますと、確かに大工が道具で木を打ち削る音が聞こえた。ひとつ、ふたつ、音は数を増やし、しだいに明瞭に耳に聞こえ始めた。
「さっきまでここは音もしなかったのにな。本を穢す敵を倒せば倒すほど、消えかかった文字は甦り、本の中の世界が戻ってゆくのか」
「そしてこの本の名は『五重塔』。あれを見てください、直哉さん」
多喜二が指差したその向こう、薄くなった霧に浮かび上がる高い建設中の建物。
「なるほどな。俺たちの戦いがこの本の物語を再び動かしたというわけか」
「でもまだ完全に浄化したわけではないようです」
「ああ。とりあえず俺たちの役目はここまでだ。次の奴らが出番を待ってるぜ」
これまで幾度正体のわからぬ化け物に襲い掛かられてきたか。
逃げ惑うだけではだめだ。戦う手段が欲しい。何かないかと手探りをしたが、触れたのは一冊の本だけだった。これでは武器にはならない。
露伴は失望に顔をゆがめ、本を手にしたまま襲い掛かる敵に対峙する。行き止まりだ。どうすればいい。
不意に手元に光が満ち溢れた。手に抱えていた本がほのかな光を放ち始める。
「なんだ」
輝き始めた本に手を触れる。光が長く伸びる。気づけば見知らぬ道具を握りしめていた。
奇声をあげて襲い掛かってきた敵に向けてとっさにその手を振り払う。しなやかで変則的な動きをする綱が向かってきた敵すべてを吹き飛ばした。
「これは・・・鞭というものか?」
文筆家ゆえもつものと言えば、筆や万年筆などの書く物ばかりだったはずなのに、なぜこのような武器を手にしているのか。
わからない。だが考えている暇すらここにはない。
撃ち落とされても再び襲い掛かってくる敵めがけて、露伴は右手を勢いよく振り払った。
「ふうむ、志賀君の言うとおりだったな。塔が出来上がりつつある」
顎に手を当てながら子規がのんびりと思案している。背後では激しい怒号とともに戦いが続いていた。
「正岡殿、戦闘に集中していただけませんか!」
弓を引き絞りながら永井荷風が苦情を申し立てた。
「いやあ、すまんすまん。何もないところに突然塔が立とうとしているという摩訶不思議なことに心を奪われてしまって・・・な!」
銃声が鳴り響いた。子規は永井の背後から襲い掛かってきた敵を振り向きざま撃ち落としていた。彼の背後にどさりと敵が崩れ落ちる。
肩に煙を吐く銃を乗せ、子規は無邪気な顔で笑う。
「油断してたら危ないところだったなあ、永井先生」
「君のそのひょうひょうとしたところがたまにひどく苛立ちを覚えることがあるよ。まあ、助けてくれたことに礼は言おう」
「そこの先生たち、さっさとこっち手伝えよ! でかぶつが出てきたんだよ!」
怒りながら啄木が銃を撃って間合いを測っている。
「どうやらこれがボスだな。さっさと退治して潜書を完了させてしまおうか」
佐藤に促されて子規たちも武器を構えた。
倒しても倒してもきりがない。あの化け物たちは自分を狙い澄ましたように襲ってくる。
狙われているのは自分か。しかしなぜ。
理由などわかるはずもなく、逃げ惑い、建物の陰に身をひそめて乱れる息を整えていた。
「迷宮のような場所だ。いったい俺にどうしろというのだ」
壁に沿ってずるりと地面に崩れ落ちる。息が荒い。一人で敵を払い逃げ惑ってたまりにたまった疲労。動くのはもう限界だった。
うつむいてあきらめのこもったため息を漏らす。
しゃがみこんだ露伴の上に影が落ちた。敵か。しかしそこに立っていたのはこちらの様子をうかがうように自分を眺めている華奢な若者だった。
光から遮られた顔は影になっていて暗い。だがそれ以上にこの若者には光、すなわち生気が乏しい。
「いた・・・見つけたよ。森先生」
呼びかけられて白い軍服姿の男が姿を現した。
「さすが藤村だな。道探しも上手だが、探し人にも優れているな」
髪をきれいになでつけた端正な面は目を細めて露伴を見つめていた。
「久しぶりだな、露伴」
「・・・森林太郎か」
「いや、今は森鴎外と呼んでもらおう」
立場で呼び名を変えさせるのは相変わらずらしい。苦笑して露伴は言い直す。
「すまん、鷗外。しかしなぜお前がここにいるのだ。それにその者達は」
問われた鷗外は表情を変えず、後ろに控える者達を一瞥して視線を露伴に戻した。
「話せば長くなるが、簡潔に言えば俺たちが心血を注いで書いた本が敵によって穢されていくのを防ぐため、文豪として甦らせられたといったところか。後ろにいる者達もそうだ。詳しい話はあとで俺たちを管理する司書に聞いてくれ」
「意味が分からん」
「当然だ。俺も甦った当初は信じられなかった。だが事実だ」
伸ばされた手を露伴はつかんだ。その瞬間、街を覆っていた穢れた気が晴れてゆく。
「敵の気配が消えたよ」
先ほどの若者がつぶやいた。くせのある長めの髪がかすかにそよぐ。うつろなその目は晴れ渡ってゆく空を見上げてもはっきりとした感情を見せることはなかった。
「浄化が完了したな。やはりお前を見つけないと、終わらなかったようだ」
「この人が幸田露伴先生なのか。イメージとはずいぶん違うなあ」
「おい、太宰、お前は少しは言葉を慎め」
「太宰? まさかあの太宰治がこいつなのか?」
「俺のこと、知ってるの? 俺ってやっぱ有名人だよな」
「露伴、頼むからこいつを図に乗らせるな。さらに上げた後で落ち込ませることだけはやめてくれ。こいつに処方する睡眠薬の量がさらに増える」
「こそこそ俺に聞こえないように何言ってるんですか、森先生」
頬を膨らませて怒る太宰だったが、鷗外は頭に手をやってため息をつくだけだった。
すると彼らの背後の地面に光の輪に複雑な紋が描かれた陣形が現れた。
「森先生、ゲートが開きました。帰還できます」
「よし、全員図書館へ帰還する。露伴、お前もだ。向こうで尾崎先生が待っている」
「紅葉が?」
「あちらは俺たちよりもずいぶんと君を探し回っていたからな。積もり積もった話があろうようだ。酒の相手くらい付き合ってやれ」
鷗外はそう言って霧が晴れてその威容を現した五重塔を見つめた。
「よく谷中であれを見ていたものだ。五重塔、君の作品に描かれた実直な職人、あれはまさに君が自身の作品に捧げる心意気に通じるものがあるかと思っていた」
「・・・買いかぶりすぎだ。俺はまだ達観できる領域の作品はかけておらん」
「その謙虚さは相変わらずだな。文学の一時代を築いても変わらないと見える」
露伴の肩に手をかけて、光のゲートへと彼を導いていった。
なかなかボスにたどり着かなくて苦労しました。
ボスで稀ドロップだったはずが、のちの発表で戦えば確率上がるってどういうことだ。
紅葉先生の会派でお迎えできなかったのは、なんか会いたくなかったからなのかと邪推してしまう。一番ボスにいってたはずなんだけど。
なんだかんだな初イベントでした。
次のイベントはなにかな。楽しみです。
派閥なし 幸田露伴 転生 二〇一七年一月六日
イベント01 特別要請『五重塔』ヲ浄化セヨ 二〇一七年一月六日終了
最終獲得 歪な歯車38004個
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