ゆめうつつ

刀剣乱舞・文豪とアルケミスト関連の二次小説。主にコメディ中心。

夕暮れ ~来派~

 太古より重く静謐な空気に守られていたはずの聖域が揺れた。

 神社の閉ざされた沈黙を破る不穏な気配を感じて、己の本体のかたわらでいつ目を覚ますともなく微睡んでいた蛍丸は夢の淵より舞い戻った。いまだ夢を漂ううつろな目をこすりながら、穏やかなこの地を乱す何かの気配を探る。

 誰だろう。もうあの戦いは終わったはずじゃないのかな。

 俺たち刀なんて何の力にもならなかった。押しつぶされすべてを破壊しつくされたあの圧倒的な負け戦では。

 記憶の奥底で敵の襲来を告げる甲高くも耳障りな音。

 抵抗するすべを持たない弱い人間たちはわずかな荷を背負い、痩せ衰えた子の手を引き逃げ惑う。無慈悲にあざ笑うかのように鉄の鳥が幾日も空を飛び交い、家も人もすべて無慈悲に焼き尽くしてしまう業火の火種を落としていった。誰もが死の影におびえ、神の力などこれっぽっちも役に立たなかった。

 だがあの地獄のような日々ももう過去の話。

 今の空の色は平和な穏やかな蒼に戻っている。数百年もの時を重ねたかつてと何も変わらぬ静かな時間がこの神社を再び包み込んだはずなのに。

 似つかわしくない激しい音を響かせて、普段開け放たれることのない入口が開け放たれた。闇に閉ざされていた室内にまぶしい光が差し込む。

 実体のない蛍丸であったが久方ぶりの光の強さに目をすがめた。この自分が本体である刀から離れた意識だけの状態だとしても光の刺激だけはなぜか強く感じられた。

 入り口は逆光になっていてよく見えないが誰かがそこにいるのはわかった。

 幾人かよく見知って知っている。この神社の神事をつかさどる宮司たちだ。常に平静を保ち厳かに祝詞を唱える彼らが今は珍しく声を荒げていた。身体を張ってこの部屋に何かが入ろうとするのを必死に押しとどめている。

 さすがに何か異常事態が起きていると、神社にいるばかりで世情にも疎い蛍丸にも察せられた。

 立ち塞ぐ彼らを力が足りぬといとも簡単に押しのけて天を突くような巨体が近づいてきた。清らかに磨かれた板の間を汚すように乱暴に革靴で踏みつけながら、こちらに、蛍丸の方へまっすぐ向かってくる。

 この国の者達の眼はたいがいが黒い。たまに色素が薄いものもいるがそれでもこのような目の者はいない。そいつの眼は蒼かった。ぎょろりと見開いたその眼はまるで宝玉のようにひんやりとしていた。その眼の奥にぬくもりなんてどこにも感じられない。

 見上げるほどの大きな体。掘りが深く厳めしいその表情に浮かぶのはあきらかな怒り。一目見ただけで怖いと感じさせる異形。

 鬼だ。蛍丸は直感する。鬼がこの神社を穢しに来た。

 そいつはねめつけるように蛍丸の後ろを見つめると、大仰に顔をしかめ突然手を伸ばした。はっとして蛍丸は後ろを見上げる。

 誰も止めることはできなかった。大事に納められた箱から無造作に取り上げられたそれは己の本体。この阿蘇神社に捧げられた宝たる刀。

 白鞘に納められた刀を引き抜いて確かめると、そいつは軽く頷いて刀を持ったまま背をひるがえし入口へと引き返す。

 蛍丸の意識は慌てて本体をつかもうと手を伸ばす。どこへ持っていく。それは大事なこの地の。

 だが現身をもたぬ彼には触れることすらできなかった。

 必死に伸ばされたその指先はむなしく己の本体をすり抜ける。それは確かに自分自身なのに、自分ではその刀身に触れることすら許されない。

 絶望に目を見開き、蛍丸は鬼に持ち去られてゆく本体を茫然と見送るしかない。

 だがどうすることもできない。鬼は出ていくのを阻もうとする宮司たちを乱暴に跳ね飛ばしていった。その手に刀を握ったまま、鬼はもう用はないとばかりに去ろうとしている。

 連れ去られてゆく本体に付喪神である自身も引きずられていくように追いかけながら、無駄だとわかっていてももう一度手を伸ばす。

 久しぶりに浴びる屋外の日の光が鮮烈なまでにまぶしい。だが今はこの日の光をあびることすら恨めしい。

 返せ、俺を。ここから連れて行くな―――。

 

 

 どこか遠く上の方から自分の名を呼ぶ声がする。

 重く澱んだ夢から意識だけが浮かび上がる。明るすぎる昼の日の光が薄く開けた目に飛び込んできた。

「う・・・」

 眩しい日光が直接目に飛び込んできて片腕で目元を抑えた。すると頭に横合いから影が落ちて日がかげる。

「お、起きたか。ダメじゃねえか、こんなところで寝てたら」

 心配そうに覗き込みながら蛍丸の額に手を当てる。

「汗はかいてるけど熱はねえな」

 そのくせのある赤髪の少年に、蛍丸はぼんやりとしながらも親しげにつぶやいた。

「国俊、どうしたの?」

 彼は一瞬目を丸くしたが、すぐに大げさなため息が頭上でこぼれた。

 背丈も蛍丸とそれほど変わらないこの少年はまた体のあちこちに細かい傷をこさえている。常に出陣に手伝いにと元気に動き回っているせいで、このくらいの傷は日常茶飯事で本人も全然気にしていない。

 一見どこにでもいそうな子供に見えるが、実際は蛍丸と同じく刀を本性とする付喪神である。来派、二字国俊が打った愛染明王をその身に刻んだ短刀。蛍丸とは同派だが刀匠が違う。

 蛍丸よりもずっと前に顕現していた愛染は、砂に水がしみこむがごとくすっかり人間の気性を備えてしまったようだ。人間の器で生活することにもすぐさまなじんでしまっていて、同派のよしみもあり今はこの本丸に来たばかりの蛍丸の世話係に任命されている。

 ただ来派は鍛えた刀匠が違うせいもあって、他の刀派のように兄弟という感覚はあまり感じられない。互いに何でも相手について知っているわけではなかった。

 必要以上に相手に踏み込まない、それでもつねに相手を気にかけて心はちゃんと通じている。遠くもなく近くもない微妙なようでいて心地よい関係。

 蛍丸を覗き込んでいた愛染国俊は腰に両腕を当てながらわざとらしく怒った顔で言った。

「どうしたのじゃねえよ。こんな日の当たる縁側で寝てたら具合悪くなるぞ。まったくお前はまだこの本丸に来て間もねえし、人の身だって慣れてねえだろ。人間って結構弱いんだからな、気を付けねえとすぐ具合悪くなるぞ」

  どっか具合悪いところはないかと問われてうーんと首をかしげた。手足は普通に動く、目も瞬きしたがそれほど気にならない。上から下に身体を確かめてある一点で手を止めた。

「なんかここがごろごろする」

 手のひらでのどをさすると、いきなり頬にひんやりとした感覚が当てられた。

「つめたっ!」

「それは喉が渇いてんだよ。今日はいつもより暑いんだ。寝てても水分奪われるんだからな。ちゃんと飲まねえといけねえよ」

 耳元でからんと涼しげな音が響いた。見れば差し出されたのは茶色い液体の入った硝子の器だった。

「ほら麦茶。飲めよ、蛍」

 愛染は蛍丸を寝ていた縁側から起き上がらせて座らせると、まだぼんやりとしているその手に飲み物を手渡した。両掌で包み込むように持ちながら、口もつけずじっとその水面を見つめた。

 指先にガラスを伝って冷たい感覚が突き抜けた。

「ちゃんと触れる」

「何言ってんだ。俺たち人間の体をもらったんだから当たり前だろ。しかしおもしろいよなあ、人間って。刀だった時は俺たちただぼんやり見ているだけなのに、審神者の力で動ける体をもらったらいろんなことができるんだもんな」

 器を抱えた手のひらがその温度を奪って冷たくなっていく。表面についた水滴で手が濡れた。

 伝わるこの感覚はまだ慣れない。刀であった時は触れるものといえば、刀を握られた時に伝わる生温かな人のぬくもりと、刃を振り下ろした時の鮮烈に飛び散る血と肉の衝撃だけだった。

 蛍丸は冷たいその飲み物をそっと口に運ぶ。冷たい液体が口を抜けて流れるように喉を通りぬけて身体を冷やしてゆく。

 人の身体を今の俺たちの主だというあの審神者に与えられて、もう幾日もたっているのにまだこの感覚に慣れていない。目覚めたはずの意識もまだ夢を漂っているかのようにぼんやりしていた。

 飲み終わった器を傍らに置くと、頭をはっきりさせようと何度か瞬きを繰り返した。だがそんなことでは眠気は去ってくれないらしい。

「・・・眠い」

「あれだけ寝てまだ寝れるのかよ。まあ仕方ねえか。お前、顕現したばっかでうまくその身体に慣れてねえんだろな。主さんもここんとこどうも調子悪そうだし、たぶんそれも関係してるだろうしな」

 愛染は縁側の上に立ち上がると、何かをつかもうと足を爪先立ちにして背伸びした。彼の大きいとはいえない手がむなしく宙を舞う。

「う、俺の身長じゃ届かねえ・・・」

「なにしているんや。そないに背を伸ばしようても大きくならへんよ」

 のんびりとした緊張感のない声が背後から聞こえた。

 その声を聞くや否や愛染は思いっきり眉を上げた。

「うっせえ、国行。おまえ、何ふらふらしてるんだ。内番はどうした。今日は馬当番だろ!」

 彼らの保護者を自称する明石国行は相変わらずへらへらした調子で庭側からのんびりこちらに向かって歩いて来た。暑くてかなわんわーとか言いながら汗を拭いている素振をするが、どう見ても大して汗をかいている気配はない。

 着崩したジャージのなかに着込んだシャツの首元を指でつまんでぱたぱたと仰いで風を入れていた。

 来派の実質的な祖である刀匠の作であり、代表作ともいえる刀であるが人の身を得て顕現した彼だったが、だらけたその姿からそんな気負いはどこにも感じられなかった。しかもやる気もない。そして当人にそれを悔い改める気も全くない。

 明石は顔の前でだるそうに手を振ってぼやく。

「そんなんめんどくさいですわ。蛍、調子はどないや?」

 案の定そんなことを言う。どうせどっかの日陰でサボっていたのだろう。だが優しく問いかけられた蛍丸はそんな明石を冷ややかに見つめ返すと、容赦なく突き放した。

「・・・国行に会ったら疲れた」

「なんでや!」

「当番に戻ったほうがいいぜ、サボっているとこ長谷部に見つかったらいつもみたいに雷落とされて説教だけじゃ済まねえぞ」

 腕を組みながら真剣な表情で愛染は至極まじめに警告する。

 この本丸の内務を仕切るへし切長谷部という刀は仕事を怠ける奴らには情け容赦はない。誰も反論できないのは彼自身がみなよりも倍以上に文句も言わずに仕事をこなしているからだ。特にこの明石は本丸に来て以来、サボり癖が一向になおらないので現在一番に目を付けられている。

「ああ、長谷部はんですか? あきまへん、あんな毎日カリカリしとって何が楽しいんでっしゃろなあ」

 本丸の誰もがある意味一目置く長谷部ですら明石はあまり恐れている様子はない。一向に反省の色を見せない彼に愛染がため息をつく。

「あとで怒られても俺たちはなにもできねえからな。来たならちょうどいいや、ちょっとすだれを下ろしてくれねえか? 蛍がまだ眠いんだってよ。日差しが強いからこれを下げれば涼しくて寝やすいだろ」

「自分は蛍のためやったらなんでもしますがな」

 日々ごねる本丸の仕事の時とは正反対で、渋りもせず率先してすだれを下ろし始める明石に愛染は胡乱な視線を送る。

「あのさ、国行。俺さ、今までちょっと気になってたことがあったんだけどな。おまえここに来る前ぜんぜん気配も感じられなかったのに、ひょっこり幕末の京都じゃねえところで見つかっただろ。あれって蛍が来る直前だったよな。それってすぐにここに蛍が来るってわかってたから出てきたんじゃねえだろうな」

「なにいうてますか。あたりまえやありまへんか」

 きっぱりと断言されて、愛染の肩ががっくりと落ちた。

 この明石は自分が来る前にいきなり見つかったという。らしいといえばらしいが、蛍丸が来る前に彼のせいでさんざん苦労した愛染は言いたいことが山ほどあるようだ。

「おい、お前を探すために俺たちがどれだけ幕末の京都の街を走り回ったかわかってんのか! あの橋、なんでかまっすぐ行けないし大変なんだからな」

「うーん、自分はその時おりまへんから知りまへんなあ」

 あくまで他人事のように言う明石に今までの苦労と文句を言う愛染の声を耳に流しながら、蛍丸はごろりと横になった。すだれによって日が遮られて影になった縁側の廊下はひんやりとした風が通り抜けて心地よい。

 寝転がっていると睡魔に囚われてすぐにまぶたが重くなった。重くなる、意識が遠くなる、また、あの夢を見る。

「おまえがそんな態度だから俺たち来派がどう思われているかわかって・・・あ、蛍寝ちまった」

「ほんまですな。なにかかけるもの持ってきましょ。寝顔の蛍も可愛いですなあ」

「国行、本当に蛍のことになるとマメだよな」

「なんや、国俊。あんさんにもやってもいいんやで」

「いらね。お前が蛍にするみたいにされたらうざったいだけだからな」

 彼らの声を遠くに聞きながら蛍丸は、終わることなく幾度も繰り返される夢へと落ちていった。

 

 

 無造作に地面に放り投げられた。鈍い音が鳴り響き、どこからこれほど集めたのかと思えるほどたくさんの刀と一緒に投げ出された。

 事情を知らぬまま連れてこられた蛍丸は知らなかったが有名、無名お構いなしにただ刀だというだけで収集されたこれらは奴らにとっては危険な武器であり、ただの金属の塊でしかないのだろう。

 阿蘇神社で長き由来を持つ御神体などという自分の肩書はここでは何の役にも立たない。

 乱暴に積まれた本体の刀に寄り添いながら、蛍丸の意識体は膝を抱えて地面にうずくまった。薄暗い室内は冷たい石造りで埃臭くじめじめして、あの丁寧に磨かれたぬくもりのある木の神社が懐かしかった。

 だけど待てども待てども帰れるはずもない。鬼にさらわれて正義の味方が来ない限りここからは助けてもらえないのだ。

 ここにある刀で自分のように意識を持った刀はいなかった。どの刀も沈黙を守ったままただ己の運命の時を待っているだけだった。

 抱えた膝に顔をうずめて、蛍丸もまた己に降りかかる運命の宣告を待つ。

 ―――誰にも知られないで、このまま朽ちていくのかな。

 

 

 開かれた眼の先にまだらな木の模様が描かれた天井が見えた。

 陽の光はいつのまにか垂れ下がったすだれによって柔らかく遮られ、流れる風は清らかに涼しい。日陰になった縁側でうとうとと微睡んでいると気持ちよかった。かすかな風に蛍丸のはねた髪がそよぐ。

 ここは本丸の縁側だ。あれは夢で、こちらが今の現実。

 暑い日差しも、頬を撫でる風の優しさも、人の身となって初めて知ったこと。

 知識として頭で知っていると、この身で直に感じるのは同じに見えて全く違う。

 日を遮られて涼しくなった縁側に寝転がったまま、蛍丸は起き上がりもせずただ風に揺れるすだれを見るともなく眺めていた。見れば自分のお腹のところには冷えすぎないようにと薄い掛物がかけられていた。

 どちらがかけてくれたのだろう。国俊も明石も遅れてここにきたばかりでなかなか慣れない自分に気を使ってくれているのはよくわかっている。

 掛物をそっと脇に寄せると横向きにごろりと転がって向きを変えた。今度は視界が変わり庭の様子がよく見えた。

 風に揺れる命の息吹を感じさせる若葉が萌える木々の向こうに、青く澄み渡った空が見えた。その濃く青い空に沸き立つ白い雲。暑く白い日差しの下で、季節は春から夏へと移ろうとしている。

 長く神社の奥深くに眠っていた蛍丸にとって季節の移り変わりを眺めるのは不思議な感覚だった。刀の安置されているあの場所は一年中変わることはなかったし、刀が収められるのに適した場所であれば気にもしなかった。

 ただ数百年も脈々と繰り返される神事が再び行われる時にまた一年過ぎたのかと教えてくれた。

 ごろりと横になったまま、蛍丸はまだ飽くことなく庭を眺めていた。

 すだれの隙間から見える庭の景色は柔らかな春の雰囲気から徐々に強い夏の香りを漂わせようとしていた。

 この本丸は本当に草や木が多い。

 ここに先に顕現した刀たちは折に触れて、季節の美しさを教えてくれた。春になれば穏やかな季節の始まりを告げて咲き乱れる春の花が、夏には陽の光の強さに映える鮮やかな色彩の花と萌えいずる緑の木々が、秋には色づく衣を景色にまとわせる紅葉が、そして冬には深々と降り積もる雪の中でけなげにも耐えて春を待ちわびる小さな草花が。

 彼らの話は目新しく面白い話が多かった。

 どれも来たばかりの蛍丸にはまだ見たことのない景色ばかりだ。だけどその話を聞いているうちに次第に時がうつりゆくのを楽しみになっている自分がいる。

 本当にそんな花が咲くのだろうか。降り積もった雪は触ると冷たいのか。

 人は短い生の中でこうやってうつろうものを愛でながら生きているのかと。

 そして自分も昨日には気づかなかったものを今日発見してほんの少し心が躍る。それが楽しい。

 傍らに影が落ちた。

「蛍、起きてるか?」

「あ、国俊。うん」

 ひょっこり顔を出した愛染は寝転がる蛍丸の横に無造作に座り込んだ。蛍丸との間に木の盆を置く。

「おやつ持ってきたぜ、寝てばっかでも腹は減るだろ。今日のはあんまり腹に溜まんねえけど、うまいぞ。食うか?」

 おなかに手を当てた。すると不思議なことにからっぽのおなかが音を立てた。

「もちろん食べる」

 きっぱり言い切って跳ね起きた。人の身体を得て一番感動したのはこれだ。食べもの、いろんなおいしいものが食べられる。毎日手の込んだたくさんの料理が食べれるなんて幸せだ。特に一番楽しみな時間は。

 顔をほころばせながら蛍丸は愛染が持ってきた盆の中を覗き込む。

「今日のおやつは何?」

「アイスクリーム」

「あいす? 国俊、それってどんな味? 甘いの?」

 阿蘇の山奥で神前に供えられるものにはそんなものはなかった。昔のことだから供えられるのは米とか野菜とか酒とかが多くて、あとは乾いた日持ちのするような菓子があればいいほう。

 だからこの本丸に来てこんなにもいろんな食感の菓子があるのかと初めて知って感激した。以来おやつが蛍丸の一番の楽しみの時間だ。

 にかっと笑って愛染が蛍丸の分を手渡した。

「説明するより食ったほうが早いぜ、ほらよ」

 向こうを透かす涼やかなガラスの器の上に丸くのせられた桃色のそれを蛍丸はじっと見つめた。まん丸なその形がかわいらしい。

「これがあいすくりーむ・・・」

「このスプーンですくって食べるんだよ。ほら、ぼーっと見てると溶けちまうからな。さっさと食えよ」

 やんちゃな見た目に反して結構面倒見の良い愛染は銀色の匙を差し出すと、自分のを使って蛍丸に食べ方を実践して見せる。

「こうやってすくって口に入れるんだ。あんまりいっぱい入れると口の中が冷たくて痛くなるからな、気をつけろよ」

 匙の半分くらいにその桃色の物体をすくいとると、しばしじっと見つめていたが思い切って口に入れた。ひんやりとした衝撃が舌の先を走る。それを口の中で転がしながら含んでいると強い甘味のあとからほのかな酸っぱさが広がった。

 とても甘くて冷たくて、蛍丸の顔は自然と笑顔となる。柔らかな頬にかすかに朱がさし、ふくふくと丸くなる。

「おいしい」

「それ、桃色だからいちご味だな。いちごっていうのは真っ赤な宝石みたいな果物なんだぜ」

「そんなのあるの?」

「ほんとだって。俺は春に食べたかな。今度燭台切さんたちに食べたいって頼んでみようぜ。あれもうまいからな」

 縁側に並んでアイスを食べていると、聞き飽きたあののんきな声がまた聞こえた。

「ええもん食べてますな」

 掌で顔を仰ぎながら、明石が蛍丸のそばに腰を下ろす。自分のアイスに目を落したまま、一切彼の方を見ないで蛍丸の時とは打って変わって冷たく言い放った。

「言っとくけど国行の分はねえからな。こないだおやつと引き換えに御手杵さんと内番代わってもらっただろ。おまえにすっかり忘れられてしょげてたから俺が国行の分渡してきた」

「ああ、忘れとりましたわ」

 本当に頭から抜けていたようで、愛染がまたかよとつぶやいた。

「その調子でどんだけ内番代わってもらったんだよ。俺だって面倒見きれねえぞ。つーか、内番さぼんな」

「そういいましてもなあ。かったるいもんはしょうもおまへん」

 軽快にやりあう彼らに蛍丸は口にすくう手をとめて、じっと明石の顔を見つめた。蛍丸からの視線にすぐ気付いた彼はとろけるような笑顔で問いかけてきた。

「どないしたんや、蛍」

「国行は俺のちょっと前に来たんでしょ。どうしてそんなにここになじんでいるのかなって思ってさ。俺はすぐ眠くなるし、まだこの身体もうまく動かせないじゃない?」

 一瞬真顔に戻った明石は同じく息をのんだ愛染と軽く視線を交わして、ゆったりと口元を笑ませて蛍丸の頭に手をのせた。

「自分はいいかげんやさかいなあ。適当にやっていつの間にか何とかなってましたわ。蛍もなんか悩んでることあるかもしれまへんけど、難しく考える必要はおまへん。身体もそのうちなじむようなるやろし、ここの国俊もよお助けてくれますやろ。主はんも蛍がここでの生活に馴染むまでは出陣せんでもいい言うてますし、しばらくゆっくりすればよろしいやないか」

「俺はそこまで焦ってはいないけど」

 でも体がなじまないのと、いつも眠くなるのは関わりがあるのかもしれない。眠くなれば夢を見る。繰り返し繰り返し、あの終わりのない終わりの夢が。

 自分が顕現したばかりだからそんな夢を見るのかもしれない。いつか知らないうちにそんな夢も見なくなるかもしれない。

(国行たちもそうだったのかな)

 でも、聞けない。はっきりと言われなくてもその態度で気を使われているとはっきりわかるほど心配しているのを知っているから。

 時間があれば彼らは蛍丸の様子をなにかとうかがいに来る、その理由。同じ刀派だからとかそんな理屈を超えて、なぜそうしなければならないのか。

 知っているんだ。蛍丸という刀がこの世に存在していないからだと。

 顕現させられたこの時代に実体である刀無くして身体を与えられた蛍丸を。

 だってほら、今だって俺は眠るばかりで夢に囚われ続けている。

 

 

 重いまぶたを開いた。いつの間に寝ていたのだろう。

 だが目に映るその景色は穏やかな本丸の光景ではなかった。

 空は晴れているのに風はもろいものなど簡単に吹き飛ばしてしまうほど強い。吹き荒れる強風に海もまた様子を一変させていた。

 激しいしぶきが縁にあたって白く粟立ちながら跳ね上がった。足元はゆらゆらと揺られて不安定で、うまく立っていないと倒れてしまう。

 蛍丸は足元に転がる柄の焼けた刀身を眺め下ろしていた。

 湾に浮かべた船の上。無造作に積まれた刀たちが見るも無残な刀身をさらしながら船の甲板に打ち捨てられている。

 どの刀も煤けて黒ずんでいた。そう、この船に積まれる前に、臭い匂いのする油を振りかけられて火をつけられた。

 熱い、熱い、赤い炎が本体を包み込む。刀身が溶けるには温度が低すぎて、だが刀の命である玉鋼を変性させるには十分な熱量。この火に焼かれれば鋭利な刀としての役目は果たすことはもうできない。

 蛍丸はその体に付けられたすすを頬から払う。だがぬぐおうとしてもとれるはずもない。この幻は実体ではなく、本体である刀が黒ずんだのをただ映しているだけだ。

 刀の乗せられた船は陸からはさほど離れては漂っていなかった。だがこの波で自力で戻るのは難しい。

 海上を強く吹きさらす潮風に当てられながら、手を伸ばしても届かない陸を呆然と見つめていた。

 このぼろ船に乗っている人間は誰もが船と同じくみすぼらしい格好をしていた。つぎあてのついた軍服とへたれた帽子でかろうじて威厳を保っていた。その男たちはやつれた顔でぼそぼそと身を寄せ合うようにつぶやいていた。

 ――沈めると。

 ――負けたからってこのような。

 ――だからといってどうする。進駐軍の奴らには逆らえん。

 船の要所に立っていた銃を持った厳つい大男がひそひそしゃべるみすぼらしい彼らに銃口を突きつけた。

 囁きあっていた男たちは口を噤むと、あきらめきったうつろな表情で蛍丸の方を見やった。ゆっくりと腰を上げて、積まれていた焼身の刀を無造作につかみ、次々と海に放り投げる。

 荒波の中へ白い水しぶきを上げながら、一振り、また一振りと沈んでゆく。次々と刀を投げ入れる男たちの表情は虚ろなまま。ただ与えられた作業だけをもくもくとこなし、顔に表情は何も浮かんでいない。

 慣れきっているのだ。戦争に勝った強者に命じられて、ただそのまま従うことに。逆らうなどとうの昔にあきらめているそんな気概のなさ。

 かつて武士の魂とまで言われた刀などただの鉄の塊に過ぎないのだろう。

 実体のない自分が次々と投げ込まれていく刀を助けることなどできず、蛍丸は静かなまなざしで目の前の刀たちの最後を見守っていた。

 水に投げ込まれて、沈んで、やがてこの海の底で朽ち果てる。

 それはどのくらいの時間が必要なのだろう。いらないと言われるのならいっそ消えてしまった方がいいのか。答えなんて誰も知らない。無慈悲な歴史の前では誰もが無力。

 船に積まれた刀は海に投げ込まれてだいぶなくなってしまった。そして残り少なくなった刀の山からついに蛍丸の本体が姿を現す。

 白鞘に入れられた刀身は炎の直撃は免れたらしく、黒ずんではいたが何とか形を残していた。だが高熱の影響は逃れられなかったようで、まっすぐに丹精込めて鍛えられた刀身も確実に変性していた。

 蛍丸は動かずにただ見ている。己の刀の行く末を。

 刀の山から零れ落ちて甲板の上に転がった蛍丸の本体をいかつい誰かの手がつかんだ。

 

 

 どちらが夢で、どちらが現なのかわからなくなる。

 蛍丸は目を見開いた。

 頬が触れるひんやりとした感覚で自分が人の身体を持っていて、寝転がっているのが本丸の廊下なのだとおぼろげに理解する。

(また眠っていたんだな)

 見ていた夢が終わりの夢だということだけはわかっていた。でもそれがどういうものなのかは夢から覚めた瞬間に忘れてしまう。だから誰に聞かれてもどこに自分の刀が眠っているのかは答えられなかった。

 ぼんやりとあたりを見回したが誰もいない。目をこすりながら眠りすぎてだるい身体を起き上がらせた。動いた拍子に傍らに置かれていた刀が音を立てた。

 日差しが緩んだからだろうか廊下のすだれは巻き上げられていて、広々とした庭の様子が一望に見渡せられた。

 昼には蒼く澄み渡っていた空の端からほんのりと赤く色づいてゆく。

 先ほどまで命の盛りをと緑の葉を茂らせていた庭の草木もどことなく静かに佇んでいた。風が鳴る。先ほどまであれほど暑かったはずなのに、ひんやりとした空気が蛍丸のいる縁側まで流れ込んで思わず肌を震わせる。

 時はやがて夕暮れにさしかかる。昼と夜のあわい。この世とあの世が交わる時間。

 陽の光がまぶしく大地を照らす昼がこの世であれば、このどこからともなく流れる涼しい風はどこから来るのだろうか。

 視界が急にうす暗くなる。沈みゆく陽もどことなくおぼろげだ。

 まだ陽は落ちていないのに、どうしてこんなに暗いのか。

 空気がゆがみ、あたりの気配が変わったのを察知する。ぼんやりとしていた目が冴えた。蛍丸は目をすがめ、じっと庭の暗がりの一点を凝視する。

 暗がりがゆがんで影が濃くなる。闇と見まごうほど黒く浮き出たそれは何か生き物を形作ってゆく。

「誰」

 躊躇することなく不穏な気配を漂わせるそれに蛍丸は問いかける。だがその声は受け入れる気などさらさらない。相手が何者か、尋問するかのような厳しい口調。

 答えによっては切る、と言外に響かせて。

 その影には口がない。口がなかろうとも、言葉は耳を抜けて頭に響く。

 ――己の刀が在ればいいと思ったことはないか。

 小さく肩が跳ねた。一瞬驚きの表情を浮かべた蛍丸は警戒の色を強めてその影を睨む。

 傍に置かれた刀を引き寄せて胸に抱いた。

 ――もし、あの時己が焼かれなければ。もし、神社から持ち出されなければ。

 影の囁きは止まらない。けっして思わなかったとはいえない、自分の中の揺らぎを暴いてゆく。

 ――もし、今も蛍丸という刀がこの世に存在していれば。

 蛍丸の大きな瞳が丸く見開かれた。

 反射的に両手で耳をふさぐ。聞いてはいけない。それは思ったとしても叶うことのない偽りに過ぎないのだから。

 だが一度聞いてしまったその誘惑は頭の中でさらに増幅する。

 どこをどうすればあの日の出来事を変えられたのか。あの悲劇に突き進んだ大きな戦争か、それとももっと前、神社に奉納された時か。いや、それとも敵に追われるかつての主の手の中で蛍の光によって刀身を癒されたあの時だったのだろうか。

 考えても無駄だ。過去のことは変えられない。今はもう終わってしまった。運命は定められている。だがそいつはさらなる誘惑を囁きかける。

 ――自分だけがいない。理不尽ではないのか。

 ――本体が在れば心の底から笑えるのではないのか。

 ――変えてみたらどうだ。たやすい。難しく考えるな。

 ――お前が消えることなくここに在る歴史に。

 あの静謐な山奥にある阿蘇の鎮守の社に、人々に大事に慈しみ守られて。

 力なく蛍丸はうなだれた。身体を丸め、その体はさらに小さくなる。

 影はその体でさえも取り巻こうと近づいてくる。

 ――そなたが望むのであれば、我らがその方法教えてやる。

 ――たやすい、たやすい。

 ――己の望む歴史に変えることの何が悪い。

 ――さすれば望みはなんだろうと叶う。

 最後の囁きを聞いた時、蛍丸はうつむきながら耳をふさいでいた手の力を緩めた。

「うそだね」

 自分の中からこれ以上はないだろうと思われるほど冷たい響きがこぼれた。

 迷いの感情など欠片もない蛍丸の一言に、影の囁きはピタリと止まる。

 ゆっくりと目を見開いた。猫のような丸い眼が陽光にきらめいた。けがらわしいものでも見るかのような冷徹なまなざしでその影を一瞥する。

「自分のほしいものが全部叶うなんてそれは無理でしょ」

 だって、とつぶやいて蛍丸は裸足のまま庭に下りた。左手には自分の刀を携えて、ゆっくりとそいつに歩み寄る。

「もし俺が自分のために歴史を変えたとして、他はどうなるの。この本丸にいる刀たちの運命も変わっちゃうかもしれないじゃない。もしかしたらあの時歴史から存在を消されてしまうのは、俺じゃなくて国俊や国行になってしまうかもしれないだろ? 自分のわがままでもっと大事な何かをなくすなんて、そんなことできるわけないじゃん」

 自分の身体には大きすぎる刀身を引き抜いた。鞘は邪魔になるから地面に投げ捨てる。夕暮れの残光に磨き上げた大きな刃が光を放った。

 丁寧に磨かれ鍛え上げられた阿蘇の宝の刀がその姿を現す。

「俺はもう大事なものみつけちゃったからね」

 この国に刻まれた歴史から蘇ったこの刀と自分は審神者である主の役目が終わったら消える運命なのかもしれない。でもそれを後悔したり嘆いたりはしない。

 綿々と続いた過去があるから、今の自分がいる。

 この本丸に顕現して、国俊と国行に出会えて、ただ穏やかに笑える日々が得られた。そんなささやかな幸せが嬉しかった。同じ刀派としての絆のある相手をさりげなく慈しみ合えるそんな日が。

 いつまで続くかわからないこの仮初の日常をただ守りたい。それだけだ。

「だから俺は歴史を変えさせるわけにはいかないんだよ。わかる?」

 不敵に笑いながら蛍丸は刀を大きく持ち上げて構えた。

 影が薄れ、骨に形作られた異形が見えた。こいつはそうか、時間遡行軍の奴なんだ。

(ほんと油断ならないよね。俺たち刀剣男子ですら欺こうとするなんてさ)

 でもばれたからにはもう逃がさない。

 そいつがいきなり飛び下がった。それ以上は留まるのは無駄とそのまま逃走するつもりか。

 だがそれを予想していた蛍丸の動きの方が速かった。跳躍して一気に間合いを詰める。長い刀身を逃げようとするそいつに容赦なく振りかざした。鈍い衝撃が掌に伝わる。蛍丸は不機嫌に顔をしかめると、そのまま地面に叩きつけた。

 刀を振りまわした力と蛍丸の怒りが合わさって効果は倍増する。重い刀に押しつぶされて時間遡行軍と思われるそいつは蛍丸の放った一撃によって叩ききられた。だが身体の一部を失ってもまだ動けるらしい。

 地面にもがくそいつを蛍丸はその足で踏みつけた。

「逃がさないよ」

 瞳を妖しく煌めかせ、高く掲げた切っ先をその頭部めがけて突き刺した。

  骨を貫く鈍い感覚が手から伝う。身体を跳ね上げたきり、そいつはもう動かなくなった。しばらくそのまま突き刺していたが、一つ息を吐くと刀を引き抜いた。

 いきなり慣れない戦闘をしたせいか、急に体に疲労がのしかかった。

 ふわっと大きく欠伸をする。

 身体を動かしたらまたねむくなってきた。でも眠りに落ちる時に抱く何となく不安な気持ちはもう薄れている。

 ただ身体はだるい。たったあれだけの戦闘で疲れるなんて、主が言っていた練度というのが足りないからかもしれない。自分の刀すら思うように振るえないのは悔しい。

(なんでかな。人間の身体って難しいや)

 ぼんやりとする。眠い。眠たい。

 敵を倒して張りつめていた何かが途切れてしまったのか、虚ろな目でふらふらと歩く。

 落した鞘についた土を払って刀を収めると、鞘ごと刀を抱いたままごろりと縁側に寝転んだ。すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。

 さわさわと草木の葉先を風がそよぐ。心地よい風が本丸の中をそっと通り抜けた。

 穏やかに訪れようとする夕暮れの時間。

 深い眠りにとらわれた蛍丸は自分を見ていたもう一つの視線に気づいてはいなかった。

 

 

「蛍に手を出すなんてあんさんらええ度胸やなあ」

 物陰に潜んでいたそいつに明石は軽く声をかけた。背後からいつの間に近づいていたのか、明石は間合いのほんの数歩手前まで近づいていた。

 生身の刀を引き抜いた彼はだらけていて一見しただけではどう見てもやる気はなく、表情は乾いた笑いを浮かべたままだ。だがその張り付けた笑顔からのぞく目は凍りつくように冷ややかだ。

 寝癖のままかと思えるほど癖のついた髪をかき上げて、眼鏡の下のその目は逃がすかと相手を見つめている。

 蛍丸の眠る縁側から離れた木陰で明石は不審な侵入者と対峙していた。名も知れぬ可憐な花が足元でそよぐ。

 人影は彼ら以外にない。

「敵ゆうのは本丸の中にまで来はりますのか。主はんも頑張ってますが、結界が苦手ゆうの困りもんですなあ。こないな得体のしれんのが来はるとなるとおちおち寝ていられまへん」

 やれやれと肩をすくめて明石は蛍丸のいる縁側へ一瞬だけ視線を向けた。

「でもなあ、蛍に手を出したのだけはいただけまへんな。あの子は強いですが、まだうまく自分を扱えまへんからなあ」

 切っ先は下に向けたまま、だらりと腕をおろし刀は力を込めずただ無造作に握っている。それでも明石の殺気は鋭い。笑顔の下に怒りが隠れている。

 下ろしていた刀をすっと前に突き出した。

「ほな、保護者から御礼差し上げましょ。覚悟しなはれ」

 

 

 縁側に赤く染まった陽の光が差し込んでいる。縁側から入り込んだ愛染が寝転がっている蛍のところへ両手をついて這って行った。

「蛍、もう夕方だぜ。今日は暑い日だったけどさ、いつまでもこんなところで寝てると風邪ひく・・・」

 一仕事終えてきたのか、汗ばんだ半そでの服の袖口をまくって、さらに腕をむき出しにした愛染が縁側で眠る蛍丸に声をかけた。だが身体を丸まらせて眠っている蛍丸のその顔を見て途中で言葉をとぎらせた。

 蛍丸の目元にかすかに光るものが浮かんでいる。それでもその寝顔は穏やかにほほ笑んでいた。

 それ以上何も声をかけることなく、愛染は蛍丸の横に腰を下ろしてぼんやりと庭先を眺めた。ちらりと傍らで眠る蛍丸を見下ろしてその体を起こさないように優しく叩く。

「ここ気持ちいいもんな。俺もなんか眠くなるなあ・・・ふわぁ」

 誰にともなくつぶやきながら大きなあくびをした愛染もまた重くなる目をこすって寝転がった。蛍丸の身体に寄り添うように丸くなる。

 ほんの少しだけと愛染は目を閉じたが、少しずつ意識が遠くなった。

 しばらくすると一つだった寝息がいつの間にか重なり合っている。日が落ちようとする縁側で来派の小さな二振りは身を寄せ合うように眠った。

 

 

 ――この刀、もしや。

 一人の男が何かに気付く。見張りに見つからないように蛍丸の本体を鞘から刀身を引き抜いて、確信したのか深くため息をつく。

 ――接収されたとは聞いていたが、こんなところで。

 聞こえるとも思えないかすれた声が蛍丸の耳にも届く。

 海鳴りが激しくなった船の上で、その声だけははっきりと聞こえた。

 鞘に入ったその刀を両手で捧げ持ちながら、その男はそこに立ち尽くしてまったく動こうとはしない。その明らかに不審な様子に見張りが気づいて銃を向けながら近づく。

 意味の分からぬ言葉を大声で早口でまくしたてられ、怯えた男は身体をこれでもかと委縮させ後ろにあと下ずる。だが銃口を体に突き付けられ、しぶしぶと船のへりへと重い足取りで歩いた。

 船が大きく傾ぐ。波が強くなってきた。

 揺られ揺られ、風はさらに強く、海は鳴く。

 海上にうるさいほど轟いているこの響きは沈んでいった刀の嘆きなのか。声高に己が存在をわめき、ここに在ると暗い水底で叫んでいるのか。

 それは空耳だろうか。真実はどこにあるかわからなくても、風はなおも強くなり、海面は徐々に荒れてゆく。

 その時、ぽたりと何かが体の上に落ちた。ほんのかすかな水こぼれ。これは何の水滴なのかと、反射的に蛍丸は空を仰ぐ。

 見上げた目に映る空はどこまでも遠く青く澄み渡っている。風は強いのに空は晴れている。鮮やかな蒼を塗りつぶして晴れわたった空は海の嘆きなど何も知らない。

 雨じゃない。そもそも実体のないこの意識だけの自分が雨つぶを感じるはずはない。

 自然と視線は自分の本体へと向けられていた。

 黒ずんだ鞘に水がまた一粒滴り落ちる。その時また身体がすこし濡れた感じがした。

 かすかに温かく濡れたそこに手を当てる。

(ああ、そっか。これは・・・)

 その時水しぶきを上げ海上を高く盛り上がった波に船が持ち上げられた。大きく傾いでに掴むものを求めて手を伸ばしながら人びとはよろめいた。

 その衝撃で手放すのを惜しむかのようにきつく握りしめていた男の手の内から蛍丸の刀は海へと零れ落ちた。

 静かに落ちてゆくその大きな刀はゆっくりと回転しながら、暗い色をした海面へ叩きつけられ、抗うことなく沈んでいった。

 刀が海に消えていくのを見届けるやいなや、男の身体が膝から崩れ落ちた。

 再び船が大きく傾ぐ。残された蛍丸の残影はその揺れにつられて船の縁へ動いてゆく。

 暗く深く水底へ沈んでゆく刀に引き寄せられたのか、己の意志とは関係なく自分もまた海の上へと身体を舞わせた。

 髪をたなびかせながら蛍丸は猫のように輝くその眼をその男に向ける。目が合う。いや意識だけの自分は常人には見えるはずはないのに。だけど自分の顔を見て男の眼が驚きで見開かれたのがはっきりとわかった。

 にやりと満面に愉快な表情を浮かべて蛍丸は笑った。

 俺のこの顔を見てよ。大丈夫だって。俺の役目、それは―――。

 海の上へと飛んだ蛍丸は穏やかな笑顔のまま、己の刀が沈んだ海へと消えた。

 

 

 「なんや国俊も蛍と寝てるやありまへんか」

 仲良く寄り添うように並んで眠る彼らを眺め下ろした明石は軽く肩をすくめて彼らの上にそっと一枚の掛物をかけた。一緒に眠る蛍たちはそれだけ見れば遊び疲れて眠る人間の子供と変わらない。

「いつまでもここで寝とったら風邪ひくなんて偉そうなことゆうてはりましたのに」

 彼らのすぐ傍らの縁側に腰を下ろした明石は力を抜いてぼんやりと赤く染まる夕暮れの景色を眺めた。

 暑かった今日の日差しも夕方になると緩んでいた。日を浴びて流れるほど出ていた汗も流れない。庭先に足を下ろすように腰かけて、やがて山の端にかかろうとする夕日をただじっと見つめる。

「ほんに何もない平和な眺めや。こんなん見てましたら自分らが戦っているなんて忘れてしまいそうですな」

 穏やかにつぶやいた明石はまだ傍らに眠る同派の彼らの頭を起こさないように愛おしげに撫でる。

「国俊もこれはこれで蛍の事よう心配しとるんや。直接口には出しまへんがな。自分と同じで蛍が大事やゆうのはわかりますわ」

  自分の刀を胸に抱えるようにきつく抱きしめて眠る蛍丸のこぼれかかった髪をそっとかき上げてやる。指先が彼の額に触れたがそのくらいでは起きることはなかった。

 大事に握りしめるその刀を明石は目を細めてただじっと見つめる。

 

 

 暗い、暗い。

 海の中は暗くてとても冷たくて、そして静かだ。

 沈んでゆく刀に追いついた蛍丸はその刀身をそっと寄り添うように抱きかかえる。

 遙か下の見えない水底へともに落ちてゆこう。

 眼を細く閉じたまま、蛍丸は穏やかな顔で上を見上げた。

 小さな気泡が遠くなる明るい水面へ浮き上がってゆく。上へ、自由な空へ。

 でも沈んでゆく俺はあの明るい世界へはもう戻れない。

 それでも、と蛍丸はかすかに微笑む。

(いいんだ。俺は守ることが役目だから)

 かつての主の手で戦場で血しぶきをあげていた時も、神社の中で静かに祀られていた時も。ただあの阿蘇の地を守るために存在した。

 蛍丸は薄く目を開けて沈んでゆく己の刀を見つめる。

 たとえ人知れず朽ち果てたとしても、それであの場所とそこに住まう人々を守れたのだとしたら。

 そう思いながらも、暗い海に沈みながら蛍丸は心の中にかすかな願いを抱く。

(だけどさ、ほんの少しだけでいいんだ。俺のことみんなが忘れないでいてくれたら)

 阿蘇の地で長い時に大事にされた刀があったことを忘れないでいてくれたら。

 ―――それだけで自分が存在した証になる。

 

 

 ふわりふわりとおぼろげな光が明石の顔面を横切った。緑がかった黄色の光はついたり、つかなかったり不規則に瞬きながら宙を飛んでいた。

「なんや、蛍やないか」

 驚いた明石が蛍の動きを目で追う。

 幽玄の光がうかぶ季節にはまだ早い。この蛍だけがなぜかあわてて季節を間違えたのか。

 ふらふらと宙をさまよいながらその蛍はか弱い光を瞬かせて、縁側で眠る蛍の名を持つ刀の元へと舞い降りた。

「ああ、そないか。あんたらも蛍の事心配してたんやな」

 かつて蛍丸の刀には激しい戦でこぼれした刃を癒すために無数の蛍が集まったという伝説があった。闇の中で刃に集う蛍の光はいかほどまでに美しかったことだろう。

 この蛍も心のどこかで傷ついている彼を慰めるために、姿を見せたのだろうか。

「大丈夫や。蛍は強い子やで。そないな心配せんでもちゃんと立ち上がれますわ」

 言い聞かせるように明石はつぶやく。その眼に映るのはゆるぎない自信と信頼。

「おおきにな。そないにぎょうさん思われて蛍も幸せや」

 蛍丸を見つめていた視線をそっと目の前の庭へと向けた。いつのまに現れたのか、陽が落ちて薄闇に閉ざされようとする庭先にはたくさんの蛍の光が浮かんでいた。

 どれくらいの蛍がそこにいるのか。いくつもの光が瞬き、庭をおぼろげに照らす。

 うつつとも夢ともつかぬその光景は現実のものとは思えない。

 さながら悔恨の想いを残して今に残った人間たちの想いの残滓がごとく。

「蛍はほんま幸せ者やなあ」

 柔らかな光をその顔に受けながら、明石は穏やかに笑む。

「なあ、知ってはりますか。蛍のおった阿蘇の社ではなあ、ずっと刀の行方を捜し取ったみたいやて。ずいぶんあちこち手を尽くしたみたいやけど、どうしても見つからなくてな。数十年たちはった時に、新しく蛍丸の刀が打ち直されて奉納されたそうですわ。蛍を想うぎょうさんの人の力を借りはって。いつか本物の蛍丸の刀が阿蘇へ帰ってきはることを祈ってなあ」

 明石の独り言は誰もいないおぼろげな夕闇の中へと溶けてゆく。

 蛍が舞う。ゆらりゆらりと光を揺らめかせて。ただ思いの限りに光を灯らせながら。

 目の前に浮かぶこの蛍もまた、一つ一つがその想いの結晶なのかもしれない。

「うれしいやないか、蛍。そないな長い時がたってもみんなから愛されているんや」

 掌の中に蛍丸たちのぬくもりを感じながら、明石は静かに口元をゆがませた。

 

 

 刀に小さな光が灯った。そのほのかな光に蛍丸はゆっくりと目を見開く。

 暗い海の中で蛍丸のいる場所が淡く浮かび上がっていた。

 儚くもおぼろげな黄色の光の粒は消えることなく一つまた一つと増えていく。

 それを見た蛍丸は静かな笑顔を浮かべた。

 ここは海の中だ。沈んでゆくこの場所に蛍はいない。

 ありえない。ありえるはずもない。

 この蛍はただの幻想だ。

 だがたとえ本物ではないとしても、蛍の光に込められたこの想いは伝わってくる。

 温かな光の一つ一つに込められたその願い。それは今ではなく、いくつもの時代から少しずつ少しずつ様々な自分という刀への想いが注ぎ込まれていた。

 思わず口元が緩む。

(忘れずにいてくれるんだね)

 鞘の隙間からしみ込んでくる海水に刀身が軋む。海のきつい塩水は刀の劣化を早めるだろう。少しずつ刀が朽ちてゆく痛みと恐れにも蛍丸はただ取り乱すことなく耐えていた。

 刀に込められた力が薄まれば、この意識も保てることはできなくなる。

 海の底は暗くてそして寂しい。刀の墓場となるその水底にたださび付いて粉々になるまで誰にも知られることなく横たわるのだろう。

 だけどこの蛍の光に宿った祈りのような想いがあれば。帰って来てと願うその心が在れば。

 ―――いつか必ず、愛してくれた皆の元へ。

 

 

 太太刀 蛍丸 二〇一七年二月十六日 練度最高値到達

 

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