ゆめうつつ

刀剣乱舞・文豪とアルケミスト関連の二次小説。主にコメディ中心。

依頼 ~三日月・山姥切~

  雨の気配はもうすぐそこまで迫っている。

 どんよりとした黒い雲の切れ目より時折姿をのぞかせるおぼろの月。恥らうようにわずかな姿だけを垣間見せながら、地に在るものには決して手の届かぬ空へと視線を誘う。

 湿り気を帯びた大地。じんわりと立ち上る水の気は遠くより時折そよぐ風によって瞬く間に搔き消える。

 広大な本丸を照らす穏やかな月の光。その明かりは弱々しいまでに柔らかく、夜闇に包まれた建物の周囲をおぼろげにしか見させてはくれない。

 毎夜どこかの部屋で酒好きたちのにぎやかな酒宴が必ずと言っていいほど開かれているこの本丸ではあったが珍しく今宵は調子の外れた歌声も、陽気な笑い声も聞こえはしない。今年幾度めとなるかわからぬ嵐の到来を前に宴をする雰囲気とはならなかったのだろう、この本丸は今ただ静かに眠りについている。

 遠く海より重い気をはらんだ風が吹く。かすかに匂う汐の香。どこかともなく木々を大きく揺り動かす音が聞こえる。

 されどその者はいかなる自然の驚異を前にしたとて揺らぐことはない。

 誰もいない縁側の廊下にゆったりと腰を掛け、薄雲に隠れようとする月を見上げている。肌を撫でる風が青みを帯びた艶のある短い黒髪をふわりと浮き上がらせた。

 闇にまぎれそうな宵の空のごとく黒々と蒼いその影は空に浮かぶ月に朱塗りの小さな盃を掲げる。

 星がちりばめられた天を見上げるその瞳の内にはまた細く鋭利なる月。

 涼しげな夜風に当たりながら、三日月宗近は本丸の離れにてただ独り、こちらもまた星のなき夜空にぽっかりと寂しく浮かぶ月に捧げる一献を傾けた。

 酒を半分ほど注いだ盃を口元に近づければ、ほころびかけた蕾のごとき初々しくも芳醇な酒の甘やかな香がすっと鼻より体内へと染み渡る。

 香り良き酒はまた格別なもの。目元をほころばせると三日月は一口だけそれに薄く唇をつける。口の中に含んだそれは香りに負けぬとろりとした芳醇な深い味わいで舌を喜ばせる。

 口元より盃を離し、小さな水面に浮かぶ月影に目線を落したまま三日月は先ほどより自分をうかがう気配に向けて柔らかに問いかける。

「今宵、眠れぬのは俺ばかりと思っておったが、お主もそうであったか」

 さわりと庭の一角に当たる低い木立が風がないのに揺れた。

 庭先の薄暗いその場所に三日月はこの世のものとは思えぬ端正なその顔を向け、薄闇に沈む目を細める。上に生い茂る枝葉に遮られ影になり、淡い月の光では木々の茂るその奥まで照らすことができないようだ。闇の帳を無理やり暴き立てるほどの光がなければ、夜目の効かぬこの眼ではその先まで見通せない。

 だが三日月は確信めいた口調でそちらを見やりながら問いかける。

「お主から俺を訪うとは珍しいこともあったものだな。誰もが寝静まっているかと思うこの夜更けに忍ぶようにして来るとは。この俺に何様か、山姥切国広」

 木の影から一歩足が踏み出される。足元で揺らめく白い布。雲より再び顔を出した月光が新たに現れた者の姿をはっきりとうつし出した。

 その身に与えられた真の銘を呼ばれた以上、いつまでも隠れているわけにはいかないと出てきたのだろう。

 いつもならば遠慮がちに俯きがちなその顔が今はしっかりと三日月の顔を捉えている。意を決したか、それとも開き直ったか。容易には人の目に晒さないその翡翠の瞳がひたりとこちらを向いていた。

「少し話があるだけだ」

 感情を押し殺したそっけない返答に、お主は何も変わらぬなと短い感想を心のうちに収める。

「ふむ、だが立ち話もなんだろう。こちらへ座らぬか。丁度ここに良い酒もある」

 離れた庭先でなぜか怖い顔で立ち尽くしたまま動こうとしない山姥切を、三日月は気軽な様子で誘う。ひらひらと親しげに手招く三日月に、なぜか彼は顔をこわばらせる。

 さて、と三日月は少し首をかしげた。少々気安げに招きすぎて警戒されたか。しばし躊躇っていたようだが、やがて山姥切は首を落すようにうつむくと、せめてもの抗いなのか三日月とはやや離れた縁側に腰を下ろした。

 その間は手を伸ばしても届かない距離。まだあちらからは安易には近づいてこない。

 短いとはいえない時を同じ屋根の下で過ごしたはずだ。それでもなかなか打ち解けはしない。たしかに彼の心に触れあえたと思ったこともあったはずだが。

 心の内を見せぬ静かな面持ちで目を細めた。

 伏せておいた空の盃を手にすると、三日月はとうとうと酒を注ぐ。小さな水面に金の月が揺れる。

「まずは飲め。話はそれからでもよかろう」

 差し出したその盃に視線を落とした山姥切は少し狼狽えるように顔を逸らした。

「酒を飲む気分では・・・」

「俺も独りで月見酒をしているのにやや憂いてきたところでな。一献だけでも相手してはくれまいか」

 目の前にかかげられた朱塗りの盃に落したその眼がわずかに戸惑いに揺れる。是非にと強く乞われてたやすく拒めるような性格ではないことはとうに知れていた。

「底の抜けた枡のように飲むあんたに付き合えるか。一杯だけだぞ」

 迷うように宙を泳いだ手が三日月の差し出した盃をそっと受け取ろうとした。三日月の動きが少し早かったのか、盃を渡そうとしたその時互いの指先が当たった。わずかに触れかけた指がまるで熱いものに接したかのように、山姥切は素早い仕草で手を引込める。

「どうした?」

「いや、なんでもない」

 俯いて目線を足元に落し、山姥切は今度はなるべく盃のぎりぎり端の方を持って受け取った。

 盃を両手で抱えて膝に下ろしたまま、山姥切は自分ら言葉を発しない。三日月も喋らぬ相手から話を無理に聞き出そうともせず、ただ時を待つように静かに悠然と手にした酒を味わう。

 酒を片手にぼんやりしているとどこかより寂しげな音が耳に届く。庭の草むらより聞こえるこの音はこすりあうようなその音は互いに互いを求めている。わずかな命の短さをそのはかない音に変えて、未来をつなぐその想いを込めて高く大きく鳴り響いてゆく。

 命を持つ者はつながなければ次へ己がいた存在を伝えられない。夜のはざまに鳴く虫だけではない、刀である我らを作った人もまた、同じ。

 生まれたままの姿で変わることなく長い月日を越えることのできる我らとはどこまでも違うものよと、三日月は水面の揺れる盃を見つめながらただ思う。

 彼らを見つめるのはただ天に高くかかる月ばかり。本丸はとうに寝静まり、今起きているのはおそらく自分と傍らにいる彼だけだろう。

 なるべくゆるゆると盃を傾けていたつもりだったが、ついに底が見えた。隣に目をやればいまだ彼の盃は口をつけていないのか満たされたままだ。

 己から聞きたいことがあると言いながらまだ言葉一つ発しない。布からちらりとうかがえる口元はまだ硬く引き結ばれている。しかし彼の手元の盃をよく見れば鏡面のはずの中の水面がわずかにさざめいていた。

 伝えたいことはあるのにまだ心が決めかねているのか。

 迷っているというのであればこちらから急かしては野暮というもの。千年の長き時を人の世の流れの中で存在してきた三日月は待つということにはとうに慣れ過ぎていた。だが今宵というただ一度きりの夜は限られている。

 再び薄雲の中へ隠れようとする月を眺めていた三日月はふとそばに置いておいた盆の中身を思い出す。

「そういえば腹はすいておらぬか」

 唐突に脈絡のないことを問いかけられて、このじじいは何を言いだすんだといいたげな顔をした山姥切が不審そうな目つきでいぶかしげにこちらを振り向いた。

「は、いきなりなにを」

「いやなに、確かお主は気が付けば何かを食べておるだろう。夕餉から時間も経って腹が減っておるのではと思ってな。ここにはあいにくつまみのようなものしかないが、これでも腹の足しにはなるだろう。今宵は歌仙と燭台切がしゃれたものを作ってくれてな。どうやら新しいつまみを試しにつくっていたらしい。俺が厨に顔を出したらあれもこれもとたくさんもらってしまったのだ。これだけあれば一つくらいは気に入りのものがあるのではと思うが」

「いい、それはあんたがもらった料理だろう。それに腹は別に減っていない。俺のことはいいからあんたが食べて・・・」

 膝元に差し出された盆に並べられた小料理の数々に目をやったとたんに盛大な腹の音が鳴る。一瞬にして耳まで顔を真っ赤にさせた山姥切は見るなと言い放ち、体を覆っているその布で顔を隠した。

「はっはっは、身体は正直に語るとみえる。嘘はいかんなあ」

「うるさい!」

「しかしそれほど盛大に腹を鳴らすか。たしか夕餉はいつものようにたんと食べたていたはずだろう。もしや足りなかったのか?」

「足りてない訳じゃない。たださっきまで主に提出する書類を仕上げていたんだ。机に向かって仕事で頭を使っているとどうしても腹がすいてくる。わるかったな」

 ぷいっと頬を膨らませて不機嫌にそっぽを向く山姥切の胸元に、三日月は盆の上に乗った小皿の一つに箸をのせて差し出した。

「じじいは夕餉を食べすぎてしまってな。今は腹が減ってはおらんのだ。残すのも作ってくれた者に悪い。お主が食べてくれると助かる」

「う、それならもらうが」

 ためらいながらも受け取って箸を手にするが、遠慮がちに一口それを口にするや目に見えるかのように顔が輝いた。

「・・・うまい」

「今宵の酒は幾年も寝かせた古い酒でな。それに合わせて味の濃いつまみが多いようだ。歌仙と燭台切の遊び心も面白い。一見合わなそうに見えるつまみでも食べてみれば互いに引き立てあう相性の良さがわかる。これだけ皿の数があろうとどれ一つとして同じ味のものはない。あの二振りは相当料理の道を深く極めているようだな。あとで一品ずつ感想がほしいと言われて一口ずつは口にしたが、さすがにこれ以上は俺だけでは食べきれぬよ」

「俺もさすがに作りすぎだとは思う」

 どれくらい手間と時間をかけたのか、箸でほどけるほどに柔らかく煮込まれ中まで味のしみ込んだ肉の塊を幸福そうに一口で飲みこんだ山姥切は脇に置いた盆をちらりと見やった。

 夏の季節の自然を和めいた柔らかな色調で鮮明に描かれた小鉢、反対に土塊をそのままいびつな形で焼いた武骨な土色の皿、淡い緑色の釉薬に浸した飾り気のない単調な器。どれ一つとして同じものはなく、それら器に合わせながらもいたずらに手を加えていないシンプルな料理が品よく控えめに盛られている。だが多彩の中にも凛とした個性を見せる料理にはどれも歌仙の丁寧で繊細な技が光っている。

 料理の盆は一つだけではない。三日月の向こう側にあるもう一つの盆には歌仙のとは対照的に飾りのない真っ白な小皿に色鮮やかな料理が品よく盛りつけられている。主役なのは料理と言わんばかりに色彩豊かな食材と見慣れぬ香辛料をふんだんに使いながらも、互いに味の強さをぶつかりあわせることなく絶妙な調和を保たせている。大胆な調理法でつねに新規なる味を追求するのは燭台切だ。たまにうまいのかどうだかよくわからぬ味もないではなかったが、思いもかけぬ味をおしえてくれることも多い。

 そうだとしても数が多い。彼らで競い合っていつの間にかこれだけ作ってしまったのか、それとも最初からこれだけつくるつもりだったのか。

 一つ一つの料理を次々と平らげていた山姥切も、さすがにこれは多すぎるだろうと言いたげないぶかしげな目で眺め下ろした。

「俺もあいつらがいつも旨い料理を作ってくれることには感謝している。だがなんであんたに試食を頼んだんだ? 歌仙なんかは自分の舌に絶対の自信を持っているだろう。燭台切だってそうだ。他の奴にわざわざ頼むなんて」

「それはだな、たしか味が薄いやら濃いやら歌仙と燭台切とでひどく言い争いをしていてな。まあ、そなたも知ってのとおりいつものことだが。それならば他の者に意見を聞こうという結論になってたまたま酒のつまみを取りに来た俺に白羽の矢が立ったというわけだ。礼がわりにつまみに合わせた上等の酒も存分にもらったぞ」

「酒でつられて喜ぶな。だからって酒の方は底なしでも、食べる方はそんなに食べれる方じゃないだろう。俺が来なかったらどうする気だったんだ、あんたは」

「お主が食べてくれたから問題なかろう」

「そうじゃない。あんたは俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」

「しかしここにおるではないか。ちょうどよく腹もへっている。そういうことだ。事はうまく運ぶようにできておるものだぞ」

 次の料理だと四角い白い小皿を手にした三日月は山姥切に向けて確信めいた笑みを口元に浮かべた。

楽天的すぎるだろ、あんた。いや、戦場でもそういうところはあったな」

「それにしても山姥切の食べっぷりは思い切りが良い。見ているだけでこちらも気持ちがよくなるからな。この料理たちも嬉しげに食べてもらえるならば喜ぶであろうよ」

「ちょっと待て。それは俺が単に食いしん坊だと遠回しに言っているだろう」

「おや、違ったか。まあ細かいことは気にするな。食べれば憂いことも忘れるぞ」

 まだ何か文句を言いたそうだったが、次々と手渡される皿を平らげているうちにもうどうでもよくなったらしい。最後の一つを名残惜しげに口にして、満足げに吐息を漏らした。

「うまかった。が、俺はここに何をしに来たんだ」

「相変わらず良い食べっぷりであったな。あれだけあった皿がすべて空になったぞ」

「数は多かったが一皿にそれほど量はなかったからな。これで酒じゃなくて白い飯でもあれば言うことはないが、いやだから違うだろ!」

 額を両手で抱えて座ったまま前のめりに突っ伏した。

「俺はただ飯を食いに来たわけじゃない。言いくるめられて三日月のいいように流されてしまった。なぜだ」

「存外お主も楽しそうであったぞ。気分がほぐれたようでよかったではないか」

 目を細め優しげに三日月は山姥切を見つめる。

 投げかけられたその言葉に我に返ったように覆っていた手から顔を上げた。ぼんやりとこちらを見つめ返すその眼に先ほどまでの強張った様子はもうない。あるのはおぼろげな戸惑いだけ。

 わずかに言葉に不安をにじませて短く問い返してきた。

「え?」

「先ほどまでお主はずいぶんと思い詰めた顔をしていたぞ。あれでは言いたいことも言えまい。待っても良かったが、夏の夜は短いからな。寝る時間まで無くなっては身体に差し支えるであろう?」

 瞳が揺れて視線が逸れる。まなじりが少しきつくなり、呆けたように薄くあいていた口が今度は貝のごとく堅く閉ざされてしまった。

 置いていた盃に再び酒を満たしてかかげると、三日月は闇に沈む庭の方に顔を向け直す。うっそうとした木々は夜が深くなるにつれその姿を黒々とした影へと変えもう何もわかりはしない。

 空より零れる明かりは薄雲に透けた頼りない月光しかなく、月見の邪魔にならぬように置いていた手元だけを照らす手燭の、ほのかな灯だけがやんわりと彼らの影を形作る。

「何かと忙しいそなたがわざわざ夜更けに俺を尋ねてくるということは何か言い置いておきたいことがあるのだろう。近頃なにやら思い悩んでいるということくらいこの俺も知っておるが、それではないだろうな。いくら深い悩みとて、そなたならば己の心の中で決められる。俺の元に来たということであればもう決心はついているのだろう、山姥切国広」

 少将突き放した言葉をかけると、傍らの気配がわずかに乱れたのを感じた。

「なんのことだ」

「俺に最後まで言わせるか。つまりはお主は決心はついた。だがまだ心残りがある。されどそれをどのように口にすべきかわからない。まあ、こんなとこだろうな」

「やっぱりあんた最初から気付いててわざと」

 憤った声がその口から洩れたが、それ以上は続かなかった。そっと目だけ横に向ければ、縁側に腰を掛けたままただ思い詰めたように空を眺めている。

 月は厚い雲に隠されたまま、まだ姿を見せてはいない。重く垂れ込める雲を見つめ、山姥切はぽつりとつぶやく。

「俺が行くべき時代への道が開かれた。だから俺は行かなくてはいけない」

 言葉は明瞭ではっきりしている。言葉は短くても、彼が何を言わんとしているのかは三日月にもわかっていた。力としての強さを得たこの本丸の刀たちがそれを真のものとするためにたどった筋道を彼もまた進もうとしている。

 しかしそこに三日月の言った通りわずかながら迷いを残している。目元は隠れてしかと感情を読み取れないが、見えている口元には薄く自嘲めいた笑みが浮かんでいた。

「あんたの言う通り、俺なんかが修行に行くべきなのかと悩んでいたのは本当だ。自分がなぜこの本丸に存在するのかすら見出せなくて、何が極めるための修行だと。俺なんかよりもっと行くにふさわしい奴らがいるだろう、そいつらが先じゃないかと思っていたのも事実だ。だからたとえ命令があったとしても、主に今は俺はいいと伝えようとまで考えていた。だがそれは違った。俺は戦場で強い敵に立ち向かうのは怖くないくせに、自分の過去には背を向けて見ないふりをして逃げてばかりいる。いくら俺は俺だと叫んでも人はそう見ない。写しだなんだと比較されるたびに俺はいつしかそういうものだとあきらめて、見たくないものからは目を背けて。だがそんなことをしていても俺は強くはなれない。やっとわかった。先へ進むために俺は恐れ逃げていたものへ真正面から立ち向かわなくてはいけないんだと気づいた。だから俺は修行へ出る」

 すると山姥切は履き物を脱ぎ、身体を三日月に向けて縁側に正座をすると、ぴんと背筋を正して凛とした姿勢でこちらと向き合った。

 手を上腿において神妙な面持ちで目を伏せる。

「俺なんかが天下五剣であるあんたに頼みごとをするなどおこがましいかもしれない。だが後を託せる最良の刀を考えたらやはり三日月しかいないと思った」

 頼みごとをするくせにこれをかぶったままだとさすがに礼を欠くな、といい、戦闘でも主の前でも人前では頑なに外そうとはしなかった頭の布を躊躇なく後ろに下げた。

 さすがの三日月も驚き目を見開く。

 折しも雲の間より月がわずかに姿を見せた。薄雲に透けて淡く降り注ぐ月光が彼の顕わになった金の髪を照らし出す。

「俺は明日主に修行を願い出るつもりだ。旅に出ている間、こちらではほんの数日にすぎない短い期間だが、それでも本丸を不在にして主の側を離れるのに変わりはない。知っているとは思うが、この本丸では修行に出るものがその間の近侍を指名し、修行に行ったものが帰るまで主の側を守るのが習わしになっている」

 目の前でゆっくりと頭が下がる。姿勢を正したまま折り目正しく、山姥切は礼を持って三日月に信を委ねた。

「天下五剣が一振り、三日月宗近に誠意を持ってお願いする。俺のいない間、主の側に仕える近侍を任せたい。あんたが受けてくれるのであれば俺は思い残すことなく旅立てる。だからどうかよろしく頼む」

 さらりと前髪が垂れる。無言のまま彼は願いを込めて頭を下げている。

 おそらく自分が応えるまで下げ続ける気なのだろう。頑なで融通のきかぬところはあるが、たとえ仲間うちであろうとも彼は頼みごとをするときは筋目を正して礼をする。

 それほどまでに信頼されていたかと今更ながらに気付く。あれだけあるこの本丸の刀の誰よりも、この自分を。

 先ほどまで浮かべていた笑みもすべて消し去り、常より細い目をさらに細め、ただ目の前にいる彼をじっと見下ろした。

 今はまだ感づいてはいないだろうが、この山姥切にとって主は格別の存在のはずだ。

 最初の一振り、その重み、無意識に注がれる絶対の信頼。

 どの刀にも愛情を惜しまずに注ぐ主であるが、それでも本丸の初期刀と呼ばれる山姥切との関係は特別にしかなりえない。なぜならば審神者として最初からいたのはこの一振りのみ。

 喜びも悲しみも、終わりの見えない戦いの中で本丸に関わるすべてを主と共に見続けてきた。

 その主の側を山姥切は初めて長く離れる。時代の向こうで幾年、いや幾十年、幾百年となるか知れない。その果てしない旅で心置きなくいられるよう、他の刀に主の守りをゆだねる。

(それにまさか俺を指名してくれるとはな)

 じわりと胸にほんのりと温かな気持ちが宿る。胸ににじむこの想いは名をつけるとなればなんだろう。

「頼まれてくれないだろうか」

 なかなか返事のしない三日月に、少しだけ顔を上げてうかがう視線を受けた。わずかに目を見開いたがゆるりと笑みを浮かべ承知した。

「構わぬ。旅ゆくそなたのたっての願いだ。この三日月宗近、必ず主を守り抜くと約束しよう」

「本当か」

 勢いよく顔が上がった。よほど緊張していたのだろう、顔が緩みほっとしたような安堵の表情が浮かんでいる。

 「しかし近侍は兄弟か厚か長谷部辺りにでも頼むと考えていたが」

「俺もいろいろ考えた。だが背中を誰にゆだねるかと思った時、頭に浮かんだのはあんただった。なんでだろうな。戦場で幾度もあんたに後陣を任せたことがあるからだろうか。あんたが後ろにいると分かっていれば、例えこの先どんなことが起ころうと心がくじけることはないと、負けることはないと思った。それが理由だが気に障ったか」

「いや、かまわぬよ」

 むしろ、とつぶやきかけて三日月の口元が緩む。

「行くがよい、主とこの本丸はこの三日月宗近と、お主とともに戦い抜いた刀たちが守るゆえ」

 厚い雲目からやっと月がそのすべてを空へと現す。

 満月には程遠い月の淡く柔らかな光に照らされたその顔は戦場での雄々しく敵を屠る凛々しい姿とは違い、幼さをどこかに残したかのような穏やかさを見せていた。

 ぎこちなく慣れない笑顔を浮かべながら山姥切はまっすぐ三日月を見つめ返す。

「いつ届くかはわからない。だがあんたのその強さに少しでも近づいて帰ってくる」

 

 

 やや強めに数度うかがうように戸が叩かれる。

 書き物をしていた手を止めた主はそっと息を吐き、入ってくださいと許可を出した。

 来るか来ないか、少し心配はしていたがそれは無用のことのようだった。彼自身が決めることとは分かってはいたが、主にはただ待つだけのこの身がじれったかった。

 だが今この時、審神者である自分の部屋を訪ってきたということは覚悟を決めたらしい。

 かたりと静かに戸が引きあけられ、見慣れたその姿が目の前に現れる。彼は表情を消した神妙な顔で言った。

 

「聞いてくれ。頼みがある」

 

 二〇一八年八月二十一日 打刀 山姥切国広 極修行出立

 山姥切の修行直前の話です。

 当本丸では三日月は底の抜けた枡のような酒豪です。まったく酔いません。こいつが飲んだ瞬間に酒が水にでも変わってるんじゃないかというのは鶴丸の言。