ゆめうつつ

刀剣乱舞・文豪とアルケミスト関連の二次小説。主にコメディ中心。

出立 ~歌仙兼定~

「長い旅になるとはいえ、あまり荷物を増やすのも雅ではないかな。お小夜にも荷物が多すぎると怒られたことだし」

 顎に指先をかけて考え込んでいた歌仙兼定は、一旦は行李に入れかけた身のまわりの道具を一つ一つ手にして長考し吟味しながら丁寧にえり分けてゆく。

「筆と墨は最も良いものを持っていかないと。主へ手紙をしたためるなければいけないから、安物の道具を使ったりしていい加減に文字など書くべきではないね。兼定派の文系としての評価もこの僕にかかっているわけだし」

 指先で触れて角度を変えつつ筆の穂先の具合を慎重に確かめる。手入れの行き届いた筆はどれも状態は悪くない。だとするとあとは文様の好みか。

 迷った末に幾つもの筆の中から、咲きこぼれる銀色の藤の花の柄が描かれたそれを他の書き物をする道具とともに小さな箱に収めた。

 選んだにもかかわらずまだあふれそうな荷物を行李に力任せに押し込め、なんとか蓋を閉じると、歌仙は手元に落していた目線をふと部屋の中へと泳がせる。

 焼けるような強い日差しの降り注ぐ庭との空間を遮るように、廊下にそって垂れ下げられた簾は室内を影も差さぬほど薄暗くさせていた。外はうるさいほど蝉の声が聞こえているはずなのに、細い竹の仕切りを一つ挟んだだけでその声が遠い彼方にあるかのように思われる。

 外は照りつけるほどに眩しく、内は物寂しさを抱かせる仄暗さ。眩しい夏の季節に取り残されたかのような一時の静寂。簾の隙間から覗くその景色を歌仙は目を細めてうっとりと見つめた。

 涼しげな風が起こすささやかなるそよぎに硝子の風鈴が寂しげな音を響かせる。

 にぎやかな本丸につねに響く短刀たちの楽しげな嬌声も、忙しげに早足で廊下を渡る脇差たちの足音も、涼しげな縁側でのどかに茶を喫する太刀らの朗らかな声も、今は何も届かない。

 周りからここだけ切り離されたかのようだ。それでも顕現してから長く過ごしてきた本丸の心地よい気配だけははっきりと感じられる。

 薄く目を細めた歌仙はやや顎を上げて、恍惚とまぶたを閉じた。

「しばらくお別れだね。本丸とも、この部屋とも」

 再び目を見開くと背後に頭をめぐらす。

 出立を前にして部屋は塵一つなく清めた。きちんと整頓された文机。日々のつれづれに手慰みとして書き散らした和歌や書は整理して箱に収めて物置にしまってある。

 主の気配まで綺麗に片付けられたそこはまるで空蝉のような部屋。つい先ほどまで会った日常の温かみさえどこかに失せてしまったことにさすがの歌仙も少しだけ寂しさを覚えた。

 先に旅立った者たちの中には己の名残を残すかのように在りし日そのままに部屋をそのままにしていったのもなかったわけではないが、立つ鳥跡を濁さずのをよしとする歌仙にはやはり乱れたまま残しておくのは許せない。

 名残惜しげに見渡していたその目線がひたりと何かを捉えた。壁際に設えた小さな床の間、そこに飾られた小さな花瓶とさりげなく活けられた可憐な野の花。

「僕はいなくなるのだからしばらくはいいと言ったのだけれど、でも彼の心意気は無下にもできないからね」

 そうつぶやいてこの花を持ってきた兼定の末の姿を思い浮かべ、くすりと小さく笑う。

 先ほど出陣より帰ってきた和泉守兼定は長い髪を乱したまま戦塵にまみれた戦装束を解かずに急ぎ足で歌仙の下へとやって来た。何事かと問う前に、彼が押しつけるように差し出したもの。それは戦場の片隅で咲いていた素朴で可憐な野花。

 興奮で力加減というものを忘れていたのだろう。手の内で茎を強く握りしめられていたらしく花は少ししおれてはいたが、野にある時の力強い香はまだ失われてはなかった。

 口をへの字にまげ、言いたい言葉も耐えている様子で黙って花を突きだす和泉守のそのゆるぎない眼を今もまだはっきりと思いだせる。

 主の命で外へ出ると彼は何かしらの草花を見つけては持って帰ってくることがあった。その花の選び方は統一性も美的な意識もなく本当に気まぐれで、子供の戯れかと初めは思ったものだが。無造作で素朴なその土産は近頃本丸で過ごすことが多かった歌仙にとって行くことのできない外の景色を知らせてくれる便りの一つだ。

 おもむろに立ち上がった歌仙は床の間の側に歩み寄り、頭を垂らしたその白い鳥のような花をそっと指先でふれた。さてこのまま枯らすのももったいない。

 いつものように書に挟んで押し花にしておこうと、花瓶より羽を広げたその花を挟むに適した書物を探すために立ち上がった。

 りん、と清らかな音が風にのせて響く。簾は小波がさざめくように波打つ。廊下を吹き抜けた風に煽られかけた髪を手で押さえて、歌仙は目を細めた。

 時代の流れをめぐるいつ終わるともしれぬ激しい戦いとは無縁の、ただ穏やかに平和を享受するこの本丸。

 僕らに絶対の信頼を置く若い今生の主のもと、僕らはこの場所へ呼ばれた。刀としての生に比べれば瞬くほどの短い時間のはずなのに、思い返せばずいぶん長い間ここにいたような気がする。

(心穏やかに旅立てそうだね・・・?)

 縁側の廊下に立ち、薄暗い軒下の遥かむこうに沸きたつ白雲を陶然と眺めていた歌仙は、すぐそばを素早くすり抜けようとする何かとぶつかりそうになって慌てて体を後ろに引いた。

「廊下を走っては駄目だとあれほど・・・って山姥切、君か?!」

 避けた自分の脇をすり抜けて歌仙の部屋へと消えた白い布の残像。あわててその後を追い、気分をぶち壊しにさせられて倍増した怒りの声を上げた。

「なんだい君は。いきなり走って来たかと思えば、ことわりもなしに人の部屋に入り込んで。まったく、常識というものを分かっているのかい!」

 さらに小言を言おうと構えた歌仙だったが、振り向いた山姥切のどこか余裕のないその白い顔を見て言おうとした言葉を飲み込んだ。

 彼は身体をすっぽり覆う白い布を片手は顔を覆い隠すように、そしてもう片方は胸を掻き合わせるようにきつく握りしめていた。焦りを隠せない、ひきつった声がその口から洩れる。

「すまない、歌仙。かくまってくれ!」

 そう言うなりすぐそばにあった襖を開けて押入れの隙間に細身の身体を滑り込ませた。ぴったりと襖をとじて音もなく息を殺している。

 止める間もない素早い動きに、歌仙は呆然とするしかない。

 すると間もなく、歌仙の耳にもどこか離れた場所で彼の名を呼ぶ声がするのに気付く。その声は複数で、本丸のあちらこちらで呼びかけているらしい。

 歌仙は無言のまま、閉ざされて動く気配すらない押入れに冷ややかに目を向けた。

 彼らの声はすぐそばまで近づいて、だがこの部屋にたどり着く前に遠ざかって行った。

 呼び声が耳に届かなくなったのを見計らって、歌仙は後ろ手に入り口の障子をそっと閉めた。外とのつながりが途切れる。

 ゆっくりと部屋の中を歩き山姥切がこもっている襖の前でぴたりと足を止めた。腕を組んで立ち尽くしながら、閉ざされた襖の向こうへ静かな口調を装って問いかけた。

「これは一体何の騒ぎだい。君を匿わなくてはいけない理由をこの部屋の持ち主の僕に教えてもらえないだろうか」

 出来る限り穏やかに問いかけたつもりだったが、押入れの闇の中に閉じこもっている彼は周囲の様子に鋭敏になっているのか、歌仙から発する不穏な気配を敏感に感じ取ったらしい。当然出てくる様子も、答えるつもりもないらしい。

「それにいきなりやってきて理由も言わず匿えとは穏やかではないね。探しているのは声からすると、あれは乱に太鼓鐘かな。彼らから逃げ出すのはなぜなんだい。・・・おや、やはり答えるつもりはないようだね。ならこのまま君がだんまりを決め込むというのならば、僕にも考えがある」

 語尾の声の調子を落として、歌仙は閉ざされた襖に向けてにっこりと婉然とした華のごとき笑みを浮かべた。

 するとしばらく間をおいてがたがたと襖が揺れたかと思うと、ほんの少しだけ隙間を開けて山姥切がわずかながら顔をのぞかせた。見えなくてもこのまま閉じこもっていてはまずいと察したのだろう。

「勝手に入り込んで写しの俺を歌仙が不快に思うのは当たり前だよな。悪かった、出ていった方がいいならばすぐにでも・・・」

「そういうつもりで言ったわけではないんだけどね、僕は!」

 いつもは泉のごとくあふれる流暢な言葉がなぜか今はうまく出てこない。胸の内に捉えられない靄のように広がる苛立ちに焦りにも似た気持ちを憶える。

 押入れの隙間から怯えと迷いと戸惑いをないまぜにした目をこちらに向けている山姥切に目をやって、歌仙はまっすぐ見つめることができずについと視線を逸らしてしまった。そっぽを向いたままぶっきらぼうに言葉を投げ捨てる。

「どうせ僕はしばらく留守にするからね。その間、部屋のものを散らかしたり壊したりしないと約束できるのであれば、好きにしていて構わないよ」

「そうか。歌仙はこれから修行に行くのか」

 思い出したように山姥切がつぶやいた。

「ああ、そうだよ。これから主に暇乞いをしてから行くつもりだけど」

 それがどうしたのか。薄暗い閉じた場所からこちらを見上げていた彼の眼に真摯な光が一瞬灯る。

 押入れの隙間より突然伸びた手が歌仙の袂を掴んだ。必死なその声が擦れがかって彼の喉元より零れ落ちる。

「頼む、俺も一緒に連れて行ってくれ!」

「は? 何を言っているんだい、君は」

 強い力で着物の袂を掴まれた歌仙はあわてて言い返す。

「修行は一振りずつしか行けない決まりだ。今回は僕で、君はまだ政府から道を開くための許可の通達すら届いていないはずだろう」

「それは分かっている、だが俺だけが残るのは嫌だ。主から命じられて旅立つあんたにこの俺が行くなと言うことは許されないが、あんたについていってこの本丸をしばらく留守にするなら構わないだろう」

 何かに追い立てられるかのように必死な形相に、歌仙はひるみかけたがここで折れるわけにはいかない。きつくはねつけた。

「そんなわがままが許されるとおもっているのかい!」

「ならばなんで俺が最後なんだ!」

「僕が知るわけないだろう!」

 着物の袂を引っ張り合いながら言い合っていると、突然はっとした表情を浮かべた山姥切があれだけ離さなかった手を離し、再び目にもとまらぬ速さで押入れの中へと姿を隠した。

 彼が隠れるのとほぼ同時に、歌仙の後ろの障子がなめらかに滑って開いた。

「歌仙ー、ごめん。こっちに山姥切来てない?」

 障子に手をかけたまま加州清光はけだるげな表情で歌仙に問いかけた。

 きょろきょろと室内に目を動かしたが、きちんと整頓されて一見しただけではどこにも乱れた様子は見られない。

「さて・・・」

 歌仙は加州を平静に見つめたまま思わず言葉を濁す。背後の襖が少し気にかかったが視線を向けるようなまねはしない。

 一体何事が起こっているのやらと、軽くため息をつくにとどめた。

 加州は入り口に立ったまま中に入って改めるまでする気はなかったらしい。縁側の廊下の奥の方に向けて声をかけた。

「やっぱもうこの辺にはいないじゃん。だからもう違うところへ逃げたんだって。いくらあいつだってこんな近くには隠れてないでしょ」

「それはどうでしょう、兄弟の事だから結構裏をかいて・・・あ、歌仙さん、いつも兼さんがお世話になってます」

 相棒に対する礼を欠かさない堀川国広がにこやかな表情を浮かべてひょっこり顔を出した。歌仙の背後にちらりと視線を投げると、かすかに目元を落とし鮮やかな青い瞳の奥に油断のない光を帯びる。

「部屋に入らせてもらってもよろしいでしょうか」

 上向いて見上げてくるその眼は明らかに確信めいていた。堀川は気付いている。ならばここで無理に引き留めても無駄だろう。

「かまわないよ」

 歌仙の許可を得るとわき目もふらず歩き出して奥の押し入れの前に立つと、襖に手をかけて一気に引きあけた。

「見つけた、兄弟。駄目だよ、歌仙さんにまで迷惑をかけちゃ」

 押入れにうずくまる山姥切を見つけた堀川はにこやかな顔は崩さなかった。だがその小さな背からはなぜか得体のしれない威圧が滲み出ている。

 山姥切はといえば堀川を見上げたまま硬直して動けずにいる。

 堀川は有無言わさずその腕をつかんで引きずり出す。

「僕に見つかったんだからもう観念しようよ。加州さん、手伝って」

「・・・っ、見逃してくれ」

 抵抗しようとする山姥切を堀川は満面の笑顔で一刀両断に遮った。

「駄目だって。主さんって自分のことはあまり口では言わないけれど、本当はすごく楽しみにしてるんだからね。君だって分かっているでしょう。ほら、駄々っ子みたいにごねてないで押入れから出て」

 山姥切は笑顔の堀川に引っ張られ、抵抗空しくずるすると外に引きずり出されていく。打刀と脇差の体格差などものともしない。あの小柄な細い腕のどこにあんな力があるのだろうか。

 歌仙が感心して見ているとあっという間に山姥切は堀川と加勢した加州の手によって押入れの外へと出されてしまった。

 二人がかりで引きずり出され力尽きて畳の上に倒れ込んだ山姥切に対して、堀川は何事もなかったかのようにすずしい顔をして手を軽く叩いて払った。

 騒ぎを聞きつけたのか、先ほどまで違うところを探していた乱藤四郎と太鼓鐘貞宗が入り口から顔を出す。

「もー、探すの大変だったんだからね」

 頬を膨らませて怒る乱。だが太鼓鐘は不思議そうに床に倒れている山姥切を眺めた。

「なんでまんばちゃん、こんなに疲れているんだ?」

「あ、ちょうど良かった。みなさんで兄弟を連れて行ってもらえますか? 僕はちらかしちゃったこの部屋を掃除していきたいんで。お騒がせしてすみません、歌仙さん。すぐ片付けますので」

 言いながら堀川はてきぱきとほうきなどの掃き掃除の道具を取り出しす。いかにも手慣れた様子で先ほどの攻防でほこりが舞ってしまった部屋の掃除を始めた。

 うずくまる山姥切を支えるように引き上げた加州は苦笑交じりにつぶやいた。

「さすがのお前も兄弟には敵わないのか。なんでかはわかるけど」

「・・・」

 囲まれて逃げられないと観念したのか山姥切は加州に引きずられ、おとなしくどこかへ連れて行かれた。あれだけにぎやかだった部屋がまた空ろになった。

 規則正しく刻まれる箒のはく音だけが刻んでいる。

 一連の出来事が疾風のように通り過ぎていく中を、歌仙はただ傍観者のようにしか眺めていることはできなかった。

 自分の部屋だから自分でやろうと言っても、堀川は騒いだお詫びですのでと手を出させようとはしない。仕方なく部屋に佇んだまま、手際よく掃き清められていく部屋の様子を眺めるしかなかった。

 きつく絞った雑巾で柱をふいていた堀川が床の間の前で手を止めた。小さな一輪挿しの花活けにさりげなく飾られた花を見て大きな目を丸くして見つめる。

「歌仙さん、これ」

 堀川が指差したそれを見ながら歌仙は目を閉じて小さく頷いた。

「それは和泉守が持ってきたものだよ。出陣するたびに必ず何か花を取って持ってきてくれてね。今日は鷺草、昨日はつゆ草、その前はリンゴの花ときたものだ。一体彼の感性というものが分からなくてね、何かこの花を選んだ理由というものがあるのかい?」

「え、と。兼さん、そこまで考えているかなあ。でも兼さん、出陣先とかで綺麗なお花畑とか景色を見つけたりすると歌仙さんにも見せてあげたいってよく言ってましたから。その花も本丸で待っている歌仙さんに喜んでもらうために持ってきてるんじゃないいでしょうか。兼さんにそう言ったらそんな訳ねえよって顔を真っ赤にして怒ってましたけど」

「そうか。和泉守らしいね」

 白くはばたいた鳥の姿を模した一輪の花を歌仙はそっと手にする。そよ風にもたおやかに揺れるその繊細な花に、彼なりの言えない思いを感じ取る。

 本棚より一冊の分厚い書籍を取り出すと、花を幾枚にも重ねた和紙に丁寧に包み込み本の間に挟んだ。押し花にした花はもうどれくらいたまっただろうか。それら一つ一つを歌仙はどれも捨てることはできない。

「大切にしてくださってありがとうございます」

 言われて横を見ると堀川が本当にうれしそうな様子で笑顔を浮かべていた。

「あの子が僕の為を思ってくれるのは分かっているからね。その気持ちをこうやって形に残しておきたいだけだよ」

 いつか本を開いてふと目に入った花々に、その花を渡してきたその時々の和泉守の表情を思い出すだろう。言いたいことをうまく口に出すことができずに、無造作に渡す花に思いを込めて。

 僕が打たれた遥か後の時代の刀。だけど彼は紛れもなき時代を象徴する兼定の刀の一振り。その彼にこうやって触れて話すことのできたこの本丸での思い出はどれも僕にとってかけがえのないものだ。

 手に力を入れればすぐに壊れてしまうであろう儚い欠片の一つを歌仙は大事に本に閉じ込む。閉じたその拍子をそっと撫で、歌仙は元の場所にそれを戻す。

 気付けば部屋は掃除が得意な堀川によって、以前よりもさらに磨き上げられて清められた。その手際の良さにさすがの歌仙も舌を巻く。

「かえって綺麗にしてもらったようだね、ありがとう。君にはいつも世話をかけるね。僕がいない間、あの子のこと、頼むよ」

「はい、兼さんのことは僕に任せてください。あと、歌仙さんも道中お気をつけて下さい。兼さんも帰還した時の歌仙さんの姿、すごく楽しみにしているんですよ」

 僕も楽しみなんですと堀川は邪気のない笑顔で言う。

 障子の向こうに小さな影が映った。隠れるように顔を出したのは小夜左文字だった。

「歌仙、主さんが待ってるけど」

「おや、もうそんな時間かい。わかった今行くよ」

 おもむろに立ち上がって用意しておいた荷物を取りまとめて手に持つ。小夜がちらりとその荷物にうかがうような目線を送ってきたが、特に何も言わなかった。咎められるかと思っていた歌仙はほっと胸を下ろす。

 堀川に別れを告げ、小夜を先頭に歌仙は主の部屋へと急ぐ。

 その道行きで歩きながら小夜が後ろを振り向いてぽつりと言葉をこぼす。

「なんか、嬉しそうですね」

 ほんの少しですけれどずっと笑っていますよ、と。胸を突かれて目を見開いたけれども、口元を苦笑させ歌仙ははにかむ。

「ああ、そうだね。僕はここが気に入っているみたいだ」

 にぎやかで騒々しくて一人静かになんてとてもさせてもらえない。ここにいる皆が結局僕を静かに送り出してくれることはないだろうけれど、でもそんなこの本丸が僕は嫌ではない。

「ずいぶん素直になりましたね、歌仙。昔はもっと頑なで、そんなことを言っても絶対に認めませんでしたから」

「ぐ、どういう意味だい」

 ぼそりと小夜に言われて、動揺して口ごもった歌仙に小夜はすっと視線を前に戻す。その一瞬前に表情の乏しい彼の顔がわずかに目線が和んだような気がしたのは気のせいか。

「でもいいと思います。僕も、ここに来たから・・・・」

 ふっと言葉をとぎらすと小夜は廊下を渡りきった離れのある部屋の前に立ち止まった。閉ざされた障子に手をかけることもなく、歌仙が近づくのを促す。

 心の高ぶりに止めかけた息をそっと吐き出した。気持ちを落ち着けて中に待つその人に声をかける。

 歌仙の呼びかけに、幼さのまだ残る声が応えた。

 

 打刀 歌仙兼定 二〇一八年七月十七日 極修行出立